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 私は,新潟県中越地震について震災復旧・復興を社会学的に研究してきました.3月11日,東北地方から関東地方にかけて,また,長野県・新潟県においても未曾有の震災が発生しました.今こそ,私がインタビューなどで聞いたことや,調査票調査(いわゆるアンケート調査)の統計分析でわかった科学的知見などをふまえて,何か提言すべきではないかと考えました.もちろん,科学的知見そのものだけではなく,そこから類推して書くこともあるし,どのような正義論を採用すべきかといったことを考えながら書くこともあると思います.それをふまえてお読みください.中には,被災地の方々に対して,かなり厳しいことを言うこともあるかもしれません.また,ツイッターでは,簡潔に書くことを旨としていますが,ここでは,やや詳しく書こうと思います.(記事開始:3/13 23:23,最終更新:3/16 14:57
 
<被災地在住の方々へ>
 (地震発生時点における提言)
1.いま大切なことは,「必要」と「平等」です.救援物資が届き始めると,自分や家族に少しでも多くの救援物資が欲しいと思われるでしょう.しかし,まずはそれを最も必要としている人に,そして次に,少なくとも平等に分配するようにしてください.

2.自分の欲求を出し過ぎたり,集落内の関係を悪くしたりするような言葉と行動は極力つつしんでください.いま集落内の関係を悪くしてしまうと,復旧・復興段階で集落内の協力関係がうまくいかなくなります.農村・漁村では,集落内の協力関係なしに復興はありえません.

3.区長さんやリーダーを中心にまとまった行動をしてください.区長さんが不在の場合は,至急,副区長の方を区長として昇格させるなど,中心となる人を決め,その人のもとに行動をしてください.

(提言の理由など)
1.この世の中には,誰もが絶対に正しいと認めるような分配の仕方はありません.しかし,こと,震災直後ということに限定して考えれば,「必要原理」と「平等原理」に基づいて考えていく必要があるのではないかと思います.物資等は少なく限度があり,避難所や地域住民にとって十分なものではないでしょう.だからこそ,それを腕っ節の強さでもって強奪するようなやり方はよくありません.おなかがすいているのは,特定の個人だけではなくそこにいる人全員です.平等に分けるということが必要かと思います.しかしながら,特定の物資については,特にそれを必要としている人がいるかもしれません.その場合には,その人にその物資を特にその人に優先的に分けてあげてほしいのです.

2.地震発生後,しばらくするとストレスがたまってきて,ついつい感情的な言葉を発してしまったりするものです.しかし,人に対して面と向かってきつい言葉を発すると,それはその人との関係を悪くしてしまうかもしれません.ふだんは許容の範囲であっても,緊急時には許容の範囲を越えてしまうこともありえます.また,自分や自分の家族のために,少ない物資に対して過度な要求をしたりすると,それは物資の奪い合いのような状態になってしまいます.それでは,それまで培われてきた村のまとまり(協力)が崩壊してしまうことにもなりかねません.農村や漁村では,人々がまとまっていることが重要です.そのようなまとまりをなくしてしまうと,その後,村を復旧・復興させていくことが難しくなります.
 実際,中越地震でも,「人間関係が悪くなった」という人々がかなりたくさんあったことを隠さず述べておきましょう.マスコミは「良き日本人像」を放送しようとしますが,それはマスコミが隠しているか取材がいい加減かのどちらかです.あちこちでトラブルは起きていました.事実,調査票調査(アンケート調査)をやっても,地震を経て集落のまとまりが以前よりも良くなったと感じている人は多くありません.トラブルが起こるのがむしろ普通のようです.しかし,トラブルは最小限度にしてもらいたいと思います.非常時おけるトラブルは,感情が高ぶっているときにはマイナスの結果しか生みません.お互いに注意しあって,過度な欲求や不愉快な言動は避けてください.

3.住民を束ねていくために,また,情報を集約して行政に伝えたりするために,区長の役割は重要です.平常時以上に重要になります.仕事量は圧倒的に増えます.体力的にも精神的にもたいへんだと思いますが,区長さんにはがんばってもらいたいと思います.住民間の関係を良好に保つためにも,区長さんのリーダーとしての活躍が必要です.区長さんが病弱だったりする場合には,この際,若手の方で人望のある方を区長にするのもよいかもしれません.それほど非常時の区長の役割は重要です.また,区長さんが行方不明になってしまっていたりする場合には,副区長の方を区長に昇格させるなどして,区長を立ててください.副区長というのと区長というのでは,住民の統括に差が出てくるようです.


<避難所で救援に当たっている方々へ>
 (地震発生時点における提言)
1.避難所の名簿はできていますか.最も必要な人は誰かを知るために,公平に物資を分配するために,名簿は作りましょう.もらう,もらえない,もらいすぎる,というのは,避難所の雰囲気を大きく左右します.

2.避難所に避難所以外からも物資をもらいに来る人がいます.何回目の分配でどの人に渡したかを把握するようにしましょう.これも公平性のためです.

3.トイレが確保できないところでは,女性が安心して用を足せる場所を確保してください.また,その場所へ行くときには,女性複数人で行くようにしましょう.

(提言の理由)
1&2.マスコミが隠しているか取材がいい加減かのどちらかですが,避難所ではトラブルがあったり,不満が渦巻いているものです.私が上の1,2を提言するのは,実際に一部に公平分配のルールを犯すような人がいるからです.たとえば,物資を受け取るのに,何度も列に並ぶ人や,夜陰に紛れて他人のものを盗むような人です.あまり過敏になりすぎるのも関係をぎくしゃくさせますが,避難所で救援に当たる人たちができることとしては,名簿を作り,誰に何を分けたかを記録することです.また,避難所に物資が届けられることから,避難所には生活していないが物資だけもらいに来る人もいます.避難所内の名簿を作ることは比較的簡単ですが,外部の人を記録するのはたいへんです.区長さんから名簿を提供してもらうなどすれば,外部の人の名簿を作ることも可能なことだと思います.
 これは手間なことですが,「あの人はたくさんもらっている」とか「知らないうちにものがなくなっている」といったことは,避難所や集落の雰囲気を悪くします.残念ながら,少数ではあれ,そういう人たちは一定の割合でいるものだと考えておいた方がよいでしょう.そのような意味でも,名簿を作成することをお薦めしたいと思います.

3.男性は立ちションもありえますが,女性にはそれは酷でしょう.また,夜などは灯りのない中では複数人で連れ立って仮設のトイレに行くようにしましょう.


<地方自治体首長の方々へ>

 (地震発生時点における提言)
1.「うちの被害は大きくない」と安易に言わないでください.それは,単に注目されなくなるばかりか,その後の国などからの支援の大きさに関わってきます.

2.特定の地域は,前回の選挙であなたへの投票が少なかったかもしれません.しかし,それでその地域を軽視するようなことをしてはなりません.

(提言の理由など)
1.中越地震の時に山古志村がマスコミに大きく取り上げられた一方で,とある市については,あまり取り上げられませんでした.これは,当時のその市の市長が,ざっと支持基盤に近い集落のみを見て回り「うちは大丈夫」と言ったために,山古志村には多くの物資が行った一方で,その市では物資の量が不足してしまったということもあります.また,当初は,国からの人的・資金的支援も少なくなってしまって,未だにそのことに恨みを持つ住民もいます.市町村長は「くまなく」自分の市町村を見て回ってから被害状況の判断をするようにしてください.

2.実は上の1であげたことのそもそもの理由は,当時の市長が,どうも直前の市長選で,他の候補を推していた集落のことをきちんと視察して回らなかったことにあったようです.市町村長になった以上,支持基盤の住民と同様,必ずしも支持基盤ではなかった住民も平等に接するべきです.好きとか嫌いとかいう問題ではありません.


<在米留学生の方々へ>
 (地震発生時点における提言)
1.アメリカ在住の留学生の方で「このままでは資金繰りが危ない」と感じられる方へ.まずは,大学内の身近なオフィスに問い合わせを.阪神大震災で実家が被災 した時,私の留学先の大学院オフィスは3~4クオーター分の授業料減免などをしてくれましたよ.ともかく早めにご相談を.

2.アメリカ在住の大学院留学生の方で「このままでは資金繰りが危ない」と感じられる方へ.焦って早く学位が取れる道を探りたくなる気持ちは分かりますが,一方で「学問に王道はなし」です.私はそれで失敗しました.気分は滅入るけれども,しっかりと歩んでください.応援しています.

 学生の卒論・修論などを見ていて,彼らの考えた《仮説》に違和感を感じることがしばしばある.よく考えてみると,それは前任校から現任校に移ってきてからではないかと思うようになった.ちなみに前任校では,私は心理学科に属しており,学生たちは心理学専攻だった.一方,現任校では社会学研究室に属しており,学生たちは社会学専攻である.
 ふと気づいたのはこういうことだ.架空例だが,社会学の学生は,「○○商店街は,××商店街より繁盛している」といった《仮説》を作りがちだ.「繁盛」という言葉が曖昧なのがよくないのだろうか? いや,それは,「繁盛」というものをどのように操作化(指標化)するかを明確にできれば,そんなに悪くないと思う.ここで問題なのは,「○○商店街」とか「××商店街」.というのは,これらが,固有名詞,あるいは,集合的ではあるが特殊な個体であるからだ.だから,集合的ではない特殊な個体を扱った「Aさんは,Bさんよりかけっこが速い」というような《仮説》もまずいということになる.
 先にありうる反論について考えておこう.「え,AさんとBさんとが何回もかけっこして,タイムに有意差があれば,この《仮説》は検証できるのでは?」 まあ,確かにそうだね.差があるかないかということが言えればよいとか,反証可能性があるとかいう点では,悪くないかもしれないね.だから,「○○商店街」と「××商店街」の場合でも,たとえば(規模などがほぼ同じであったとして)売上を1カ月ずつ比較してみれば,どちらが有意に繁盛しているかを求めることはできるので,やっぱり,これも悪くないのかもしれない.
 しかし,実はもっと重要なポイントがあるのである.それは,「仮説」で扱われるものは,抽象的な概念でなければならないということである.つまり,われわれは,特殊な「○○商店街」や「××商店街」に関心があるわけではないのである.われわれが関心を持っているのは「○○商店街が表象するもの(概念)」や「××商店街が表象するもの(概念)」なのである.こういう言い方が難しければ,「○○商店街的な商店街」と「××商店街的な商店街」に関心があるのだと言ってよい.たとえば,商店街というものは,2つないしそれ以上のタイプに分けられるのではないかと考えたとする.(ここでは,単純にするために2つのタイプに分けられると考えたとする.)そして,それぞれのタイプにあてはまりそうな具体的な商店街として「○○商店街」と「××商店街」をサンプル(対象)として比較するという手続によって,「○○商店街的な商店街と,××商店街的な商店街では,前者の方が繁盛する」という「仮説」を検討するのである.
 では,なぜ,心理学の学生は,「Aさんは,Bさんよりかけっこが速い」といった《仮説》を作らないのだろうか.2つの理由があるのではないだろうか.1つは,おそらく,心理学の学生は,心理学は「人間一般」に適用可能な理論を目指しているのだということを,入門時から教え込まれること.もう1つは,心理という目に見えないものを探るために,構成概念という考え方を身につけさせられること.そして,それを具現化する因子分析の考え方に馴染むようになり,具体的な事柄の上に抽象的な概念があるという考え方を身につけるようになること,である.一方,社会学の学生は,「○○商店街は,××商店街より繁盛しているのはなぜか」というような,具体的な関心を持つことが多いように感じられる(なぜそうなるのかは知らない).この場合,なぜわざわざ「○○商店街的な商店街」といった上位概念を考える必要があるのか理解できないということも十分にありえるだろう.そして,彼らが決まって考えるのは,「○○商店街と××商店街の比較」である.「○○商店街にはこれがあるが,××商店街にはそれがない」と言いたがる.しかし,ちょっと待ちなよ.商店街っつうもんが繁盛する理由って,それがあるかないかだけか? (もちろん,実際にそれがあるかないかというだけの場合もある.しかし,おそらく,多くの場合そうではないだろう.)そこで初めて,商店街の繁盛に関わるいくつもの要因があること,そしてそれらの要因の組み合わせからなる,いくつかの商店街のタイプがあるんじゃないかということに思いが巡らせられるようになる.こうしてようやく「○○商店街的な商店街」とか「××商店街的な商店街」という抽象的な概念の必要性を理解できるようになっていくのではないだろうか.こういったことが,社会学の学生たちを対象とした指導には必要だと思うようになった.
 「~みたいな感じー」というような曖昧な物言いは,科学的思考に馴染まないものとして否定される傾向があると思う.しかし,「○○商店街」ではなく「○○商店街みたいなもの」を考えることは必要である.もっとも,それは,曖昧な思考を許容するという意味ではなく,抽象的な概念を考えるという意味でであるが.
 今年は,研究上は充実した一年間だったと言えるだろう.3月までに昨年度やった「文化的イベント」に関わる調査の報告書を出し,4月からは科研がとおって,その後は合宿を経て長野県内10市町村での調査を行った.また,学会関係では,事務局を務める数理社会学会の役員選挙や名簿作成といった仕事を何とかこなしてきた.研究室では,村山先生に助けてもらうことが多かったが,大鹿村と中川村の調査を学生たちと行ってきた.これらのものは,論文としてまとめていくには,まだ先のことのような気もするが,春先には,2008年の日米会議で報告したものを論文として出すことができた.
 今年の信州でのよい思い出は,10市町村の調査を行うために,10月から11月にかけて10市町村にサンプリングに行ったことだ.出かけるたびに少し紅葉が進んだなとかいうように,秋の深まりを実感できた.最初の2年は,信州にやってきたといっても,ふだんはずっと研究室にこもりっきりだったので,それほど実感がなかったから,その意味で,今年はよい経験ができたと思う.
 夏のイタリアでのサンベルト会議への参加は,久しぶりのヨーロッパ,初めてのイタリアということで楽しめた.飛行機を降りたヴェネツィア,会議のあったガルダ湖湖畔のリゾート地,移動中のブドウ畑の風景,そして「イタリアのおっさん」など,とても印象的であった.世界各地を見聞できることもこの仕事のよいところであるが,今年はその恩恵にあずかれたと思う.
 その一方で,10月の勤務時間は350時間,11月も250時間を超えるなど,働き過ぎの状態であった.やらないといけないときは,やらないとしょうがないのだが,週末でも家庭を顧みない状態が続いてしまった.忙しすぎると,無計画に動くところが増えたり,肝心の時にやる気になれなかったり,いらいらしたりと,自分の身体的にもよろしくないし,他の人たちにも多かれ少なかれ迷惑をかけたと思う.その時期は毎年調査が入ったりという時期なのだが,この時期をどのようにうまくマネージしていくかは,今後とも課題である.
 しかしまあ全体的には,今年は充実していた.ようやく落ち着いてきたという感じはする.来年もよい年にしたいものである.

 そろそろ本年度も,1年生の配属分野を決める季節がやってきた.信大社会学分野に少し興味を持っている人に,インフォーマルなメッセージをと思い少し書くことにした.
 昨年,私は相当に長い文章を書いた.それでおよそ言い尽くしていると思うのだが,「前の年のを読んどいて」というと,「去年とおんなじかい?」と,最近の学生たちは,十把一絡げにされるのを嫌うような反応をするので(という表現自体が十把一絡げなのだがw),今年向けに若干書きたしてみる.

 今年の9月,私は学会のため広島に行った.そしてそこで今春卒業して故郷の広島に戻った卒業生と再会し,カープファンの彼に連れられて,ファンの集う焼き鳥屋に連れて行ってもらった.また,別の同期の卒業生とは彼が働いている東京近郊で会って彼の近況と悩みを聞いた.10月になって,やはり今年卒業した2人の卒業生に誘われて飲みに行った.(「卒業した卒業生」という表現は,イマイチだが,「卒業した学生」というと,未だ学生か?という誤解を受ける気もするし,まあええことにしてくれ.)
 彼らは,彼らが3年次の後半から1年半しか指導はしていない.しかし,卒業生が学生時代を懐かしみ,話や相談をしに来てくれるというのは,教員としてこの上ない幸せである.私も自分が育てた学生だという気持ちがあるし,たぶんだけど,彼らも私のことが嫌いじゃない.社会学分野は,そういった卒業後も続くちょっといい関係を作れる場所だと思っている.

 しかし,世の中ハッピーなことばかりではないのも事実である.今年痛烈に思ったことは,信大の社会学は実習として,全員が学外にインタビューに行ったりするので,社交性のほとんどない人はやっぱりダメだということである.社交性を身につけたい(けど,今は社交性はほとんどない)という人は,来ない方がきっと幸せである.社交性というのは,訓練をして身につけるような代物ではない.日頃の対人関係の中で徐々に形成されてくるものだろう.インタビューをするうちに社交性が身に付いてくるというようなのは幻想だ.インタビューはそんな即効性のある治療薬ではない.そんな話は虫がよすぎる.自分は少しは社交的だと思えるとか,自分は対人関係はそんなに苦手ではない,という程度より上か下かで,幸せな社会学分野ライフを送れるかどうかに開きが出てくるように思われる.そういった程度よりも上ならば,最初はおっかなかったインタビューも数をこなせば楽しくなってくるだろう.しかし,下ならば,苦痛の連続でどんどんイヤになるだろう.たぶん,そういう人は,インタビューという状況を考えただけでもイヤなのではないかと思う.そういう人は,最初からやめておいた方が得策だと思う.いろんな人と普通におしゃべりできる人,初対面の人とは少しは緊張するけどそのうち打ち解けられるという人なら問題ない.ただし,極端に苦手な人は気をつけてということだ.
 去年は,ウェルカムな感じのことばかりを書いたのだが,ちょっとネガティブ情報もないと不自然かと思うので,とりあえず,上記について留意されたしと言っておこう.

とりあえずは,ここまで.また,思いついたら,その度に追記していくことにしよう.(11/2)

 このところ,うれしいことが2つあった.前任校で指導していた2人の院生のうち,東大の博士課程に進学した高木君が,修論をまとめて投稿した論文が『社会心理学研究』誌に掲載されたこと(彼については,卒論をまとめた研究もすでに同誌に掲載されている),東北大の博士課程に進学した稲垣君が修論をまとめて『社会心理学研究』誌に投稿した論文が,このほど学会の優秀論文賞をいただいたことである.有為な人材を輩出できたことを率直に喜びたい.

高木大資・辻竜平・池田謙一,2010,「地域コミュニティによる犯罪抑制:地域内の社会関係資本および協力行動に焦点を当てて」『社会心理学研究』26(1): 36-45.

稲垣佑典,2009,「都市部と村落部における信頼生成過程の検討」『社会心理学研究』25(2): 92-102.

 このことは,私の指導法についての1つの決着のようにも思われた.前任校での5年間,私は密度の高いゼミ指導をしてきたつもりであった.しかし,周囲からはやっかみを含んだ批判もあったので,どことなく不安もあった.表向きには気丈なことを言っていても実は小心だったりするもので....
 しかし,2人の前の教え子たちが目覚ましい成果を上げてくれたことは,私に大きな確信を与えてくれた.少なくとも,自分の教育の仕方は,決して独善的なものではなかったと思うことができた.試行錯誤をしてきたので,自己反省的に,なぜ彼らが中堅私大から旧帝大に進学できたのか,なぜ学会賞まで到達させることができたのかを語ることができる.私は,自分の指導法を「再生工場」になぞらえていた.「本当はもっと上位の大学に行けたのではないか」と自尊心を傷つけられて入学した学生を蘇らせ,決して「学歴ロンダリング」と揶揄されないだけの実力をつけさせてより上位の大学院に送り込むことを目標としてきたからである.(これ以上自慢話をしても気色悪いのでしないが,巷で流行のFDなどでは,到底これだけのことはできないとだけは言っておきたい.)
 私は,信大では社会学研究室の教員であり,これまでとは専攻が違っている.すでに丸2年が経過したが,今も研究室の運営や効果的な指導の仕方について新たな試行錯誤(良い意味で,もう少し手を抜くこと)をしているところである.またいつの日か,この新たな場所からも優れた人材を輩出したいと思っている.信大人文学部には博士課程はないので,研究者希望の学生は,学部卒ないし修士卒で外に送り出さないといけないが,有為な人材が育ってくれることが,何よりもうれしいことである.しかし,いずれは,学生を途中で手放さず,博士課程まで面倒を見ることができればなぁと淡い希望も抱いている.

 最近,新書版で,和製英語や,日本人の英語の癖について取り上げるものが多くなっている気がする.これらは,先日立ち寄った書店で見つけたものを,あまり吟味することなく買ったものである.

 留学を経験した私であるが,常々,専門の論文の英語よりも,日常の英語の方がずっと難しいと思っていた.問題は,英語にもあるニュアンスである.ここで取り上げた2冊は,いずれもそういった点について,具体的な例を挙げてニュアンスを解説してくれる.受験英語では到底学べない内容である.こういった本がもっと早くからあれば,留学中のさまざまな行き違いも避けられたことがあったかもしれない.実際,文法が間違ってはいないはずなのに,けげんな顔をされたりすることが,留学当初はしょっちゅうあった.本書を読むと,「ああ,そういえば,こういう言い方をしたときに,変な顔をされたなぁ」と思うことが多かった.その意味で,これらの本の内容は,私が数年間留学をしていて現場で学んできたものとほぼ同じで,かなりの部分は首肯できるものであった.海外に出て行く予定のある人などは,持っておいて損はない.全体的には,よく書けているという印象であった.

 いくつか注文をつけるとすれば,同じフレーズでもイントネーションに注意せよといったことが書いてあるところが結構あるのだが,実はそれをイメージできるかどうかは,結構難しいかもしれない.私も留学していたから,ああじゃなくてこうなんだよな,と想像できるのだが,ただ「注意せよ」だけでは,注意のしようがないのではないだろうか.願わくは,CD-ROM付きの方がよかったと思う.ただ,新書版という制約上,これは無理なのかもしれない.
 それから,シチュエーションは一応説明されてはいるし,全体としては書き言葉より話し言葉について書かれているのだが,書き言葉として利用可能かどうかといった指摘があってもよかったかもしれない.誤ってそのとおり書き言葉で書いてしまうと,意味不明とかいうものもある.
 またシチュエーションについて言えば,たとえば愛の告白のフレーズなんてのもあったが,このあたりになると,日本人だってそうだが,かなり好みがあるものである.著者2人の年代も気になるところである.私の感じたところでは,推奨されているフレーズは,少なくともティーンエイジャー向きではなさそうだし,やや無難すぎるかな,やや内向的すぎるかなといった感じがした.

 たぶん,こういった本はどれもそうだと思うが,実際には,紹介されているフレーズを参考にしながら,実際には自分で実際の状況に合わせて変化をつけていかなければならないのだと思う.スタンダードはあくまでもスタンダードなのである.(もっとも,スタンダードとは何かといった議論もありえるが,私は英語の専門家ではないので,そのあたりはパスしたい.しかし,留学経験があるので,ある程度のスタンダード「らしさ」はわかっているつもりである.)
 自分が好ましいと思う自己像のとおりに英語でも自己表現したいとすれば,ものの言い方とそのニュアンスについて無関心ではいられないだろう.これらの本で予習した上で,見せたい自分のとおりに表現するにはスタンダードからどのように味付けするのがよいかを考えてみるのも面白いと思う.ただ,そういったことは,実際に現地で手探りをしてみて,相手からの反応を見ないとわからないものだとは思う.
 いずれにしても,こういったテーマは,意外にも難しくも興味深い問題の一端を表しているように思われた.

6月末から7月初旬にかけてイタリアに行ってきたが,その中で,日本の過疎地域の公共交通の参考となるかもしれないものを見たので,記録にとどめておきたい.
それは,コンテナ1つを引っ張っていた公共のバスであった.

日本の過疎地域は,採算が取れないので,バスなどの公共交通が撤退していくというのが,よくある姿である.しかし,コンテナを引っ張る,あるいは,貨車を引っ張るというのは,多少なりともバスの運行のために貨物業者から対価が入ってくることを示している.また,バスは定期的に運行されるから,定期的に荷物が届くという貨物業者・利用者にとってのメリットもあるだろう.

別にイタリアのとおりにやる必要はない.バスに空席が多いようなら,バスの後方を荷台にするという手もあるだろう.いろいろなアイディアを出して,過疎地域への公共交通を確保しないといけない.日本では思いもかけないバスとコンテナの組み合わせであるが,それを一度見てしまうと,自分の発想が貧困だったことを思い知る.さまざまなアイディアを模索できればと思う.
6月末から7月にかけてイタリアのRiva del Gardaで行われたSunbelt XXXに行ってきた.
景色もよかったし,本場イタリアンの味はガーリックでごまかさないのだということがわかったりと,本当によい学会だったのだが,インパクトという意味でいうと,バスの中で出会った酔っ払いのおっさんほどインパクトのあったものはなかった.
そのときには,思わずtwitterで実況中継もやった.そのうちログが消えてしまうだろうから,その熱気をとどめておこう(日時は,日本時間).

---ここから---
2010年07月04日(日)

ローカルのバスの中なう。酔っ払いのおっさんらがやりほうだい。運転手が叱るとおっさん逆切れ。バス止まる。やれやれ。
posted at 02:44:25

いろんな人が止めに入って、すごいことになっている。一番強そうな兄ちゃんが、他の乗客に向かって、英語でソーリーだって。日本でもありそうな光景。
posted at 02:50:30

イタリアに来て一番インプレシブな事件 笑
posted at 02:52:12
---ここまで---

湖水浴帰りなのか,酒に酔った上半身裸のおっさんが,手すりにぶら下がって器械体操まがいのアクロバットをやらかしたり,車内で酒を飲もうとしたところ,「車内は飲酒禁止だ」(イタリア語はわからないがたぶんそういうことだと思う)とバスを止めて注意しにいった運転手に逆ギレし,その後しつこく何度も運転手に絡みに行ったり,全く無関係の優しい淑女になだめられたり,インド系の男性に絡んだり,やりたい放題,し放題.日本では,ここまでのレベルの酔っ払いは見たことがなく,サンプル数1で恐縮だが,「ああ,イタリア人って何かすてき」と思ってしまった.

また,そのおっさんの知り合いなのか家族なのか知らないが,ともかく,そのおっさんの「身内」みたいな人が数人乗っていて,おそらく妻とおぼしき人が,かなりの剣幕で「いい加減にして」とか(イタリア語はわからないがたぶんそういうことだと思う)注意するのだが,おっさんは,そのときには「わかったわかった」みたいなそぶりを見せるのだが,すぐにまた暴れ出すという繰り返しだった.あまりに状況がひどくなると,身内の中の一番がたいが大きくて強そうな兄ちゃんが飛んでいって「おいやめろよ」というようなことを言うと,一時的には少し大人しくなる.
ここで特筆すべきことは,その身内が,一切体を張った制止をしなかったことだ.あくまでも注意するだけ.一切体には手を掛けないのである.これこそが最もインパクトのあったことだった.妻とおぼしき人も鼻と鼻がくっつくような感じで注意するのだが,手は触れないのである.
なぜそうなのか,よくわからなかったが,これが彼らなりの他者に対する尊厳の認め方なのか.これがイタリア流,あるいは北部イタリア流個人主義なのか.

と来たところで,いきなりパットナムの話になるのだが,Riva del Gardaは,イタリア北部のリゾート地である.見たところおっさんらは観光客ではなく地元の人がちょっと一日湖水浴に来たという感じがした.やり放題のおっさんが存在し,しかしそれを真剣に怒りながらも手は出さないというのは,イタリア北部で民主的制度が発展していることと何らかの関係があるのだろうか.
酔っ払いのようなぐちゃぐちゃな話で申し訳ないが,酔っ払いのおっさんから民主的制度の話は,あまりにもギャップがありすぎるか.そうかもしれないし,意外にそうでもないのかもしれない.とにかく,記憶に残りいろいろと考えるネタにはなったおっさんであった.

7月25日(日),サントリーホールで行われた日本フィルの親子向けのコンサートである「第36回日本フィル夏休みコンサート」(14時開演の部)に行ってきた.
これを演奏そのものについて,また,社会(学)的な観点から述べてみたい.

まず,すごいなと思ったのは,サントリーホールがほぼ満席だったことである.このチケットを押さえたのは妻だったが,昨年は少し遅れたら満席で取れなかったとのことで,発売とともに売れてしまうほどの人気らしい.
確かに,プログラムを見ても,よく練られている.オーケストラ曲,オペラ,みんなで歌う曲といった3部構成一つとっても,飽きやすい子どもたちのことをよく考えた作りである.
曲そのものは子ども向けかというと,そうではない.たとえば,オープニングは,チャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」より「ポロネーズ」だったが,賭けてもいい,このオペラの題名すら知らなかった聴衆がほとんどだったと.チャイコフスキーが好きな私も,昔チャイコフスキーの「お勉強」をしていてかろうじて名前は知っているが,曲そのものを聴くのは全く初めてだった(オペラ嫌いだからというのもあるかも).その意味では,大人も「やられた」感があると思う.しかし,曲そのものは明快なもので,子どもたちがすっと入っていけるものだっただろう.
まあしかし,それ以外の曲は,明快で親しみやすいメロディをもった曲,小学生くらいになれば聴いたことのあるような曲で構成されており,よくできてるなぁと感心した.
休憩を挟んで第2部と第3部が続けて行われたが,第2部は「魔笛」.パパゲーノ(←ATOKもこれくらい一発変換してほしい)とパパゲーナが出てきて子どもたちも大喜び.ここでも子どもの心をちゃんと捉えていた.
それにも飽きてきた頃?には,みんなでオーケストラをカラオケに,手振りをつけて歌う曲3曲へと続く.子供心の機微を捉えている.(ただ,大人は半分くらいは乗れていない模様.)しかし,2曲目,近年の卒業式の定番らしい(と,妻に教えてもらった)Believeという曲は初耳.(誰でも知っている曲らしいが,私は,ポピュラー音楽にはほとんど無関心である.相当に偏屈である.)歌詞は社会学者好みではない(笑)し,曲自体はだらだらしていて凡庸である.明らかに小学生低学年以下に理解できる歌詞ではないので彼らが沈黙していたのは,改善の余地ありと思われた.それにしても,Believeに見られる気持ち悪いほどの浪漫主義は,自分にはunbelievableで,完全に沈黙を余儀なくされた.
歌って気分を取り直したところで,プログラム上の最後が「ダッタン人の踊り」であった.しかし...「えっ,最初からじゃないの?」 いきなりティンパニが出てきて3拍子が始まったときには,ずっこけた.いや確かにもう子どもの中には飽きちゃった子がいるかもしれない.でも,オーボエとイングリッシュ・ホルンのソロのないダッタン人なんて...クリープを入れない...,いや,このクリシェはいつぞやも使ったのでそこまでにするが,何とも口惜しい.
で,アンコールは,定番中の定番(書かないけど,子ども向けのコンサートでもあるわけだし,「あれ」しかないじゃないですか)であった.うちの子は,ここになって初めて大ノリ.いやー,あの曲って何で人心を完全につかんでしまえるのか不思議である.

われわれは舞台に向かって左手の舞台脇のあたりで,舞台から指揮者の指揮を見る形になる席だった.指揮者の梅田俊明さんは,終始にこやかで,しかし,堅実な棒さばきを見せていた.子どもの教育という点からすれば,奇をてらわず安心できる演奏内容だったと言えるだろう.
オーケストラのメンバーも,いつもの定番といった感じでリラックスしているようで,安心して聴けるものだった.


さて,この演奏会は,関東一円で10回にもわたって開かれるものだが,どこでもこんなふうに満員御礼状態だとすると,子どもの音楽教育・情操教育といったことに関心を持つ親は,ものすごい数なのだと思われた.コンサートにやってくる人々については,そのうち私も実証データの分析を出すつもりだけど,やっぱりおハイソな人々である.純粋に音楽が好きとかいうだけではないものがある.「これがブルデューのいう再生産の象徴的な現場だ.この国のおハイソ社会とおハイソ文化は,不況などものともせず続いていくのだ」と感じられた.ただ,われわれの実証データによると,おハイソな人々は,社会ネットワークを異なる社会集団に掛けていくという好ましい性質を持ってもいるようだ.これについても,またいずれ.

ところで,このコンサート,子ども向けとはいえプロのコンサートということになると思うが,私としては,昨年の木曽音楽祭以来のコンサートだったと思う.音楽好きではあっても,週末に松本とさいたまを往復する身としては,思いの外コンサートに行く機会はないものである.また,ふつうのコンサートだと,子どもは入場制限があるので,子どもを置いていくことになり,そんなにしょっちゅうおじいちゃん・おばあちゃんや託児所に頼るわけにもいかない.そういった向きには,親子コンサートというフォーマットは,クラシック好きの親の欲求とも絶妙に合致しているということに気づいた.もちろん,親子コンサートにブルックナーの8番全曲をやるわけにはいかないけれども(1楽章でも無理か...笑).
会場で配布されていたコンサートのチラシを見ていると,他にも何種類かの親子向けのものがあるようだ.こういった親子コンサートは,一組で2,3人になるわけで,集客効率としてもよいのかもしれない.すでに飽和状態なのかどうかは知らないが,ビジネスモデルとしてはうまくできているのかもと思った.
終演後,ロビーでは楽団員を囲んだQ&Aや,サイン会などが行われ,ある意味ではふつうのコンサートよりもずっとサービスがよかったとも言える.少子化の中,音楽を志す一定の人員を確保しようという明確な意図があるのだろうか.
ともかく,いろいろな側面で,面白い経験だった.「オレは何でも理解できるんだぜ」と物知り顔で聴くサイトウ・キネン・フェスティバルの「武満徹コンサート」もいいけれど,親子コンサートもアイディアの集合体であり,決して「子供だまし」などとバカにできないものだと感じられた.願わくは,「再生産」が緩和される形にするにはどうしたらよいのかといった点からも取り組みを期待したいが,それには,社会学者が,きちんと実態把握をしないといけないですね.それは,今後自分がやるべき仕事かもしれないと思ったりしているところでもある.
ブルックナーという作曲家の伝記と若干のブルックナー論をまとめたのが本書である.
春休みごろのことだが,池袋のヤマハに行ったときに,本のコーナーに行ったら,3冊くらいブルックナーにかんするものがあり,そのうち読みやすそうなものと思って買ってみた.

私がブルックナーを知ったのはわりと最近である.クラシック音楽のCDを紹介する雑誌を見ていて,自分がこれまでよく知らない人のものを買ってみようと思って,交響曲第9番(ヴァント指揮,ベルリン)を買ってみたのが始まりだった.(たぶんだけど,吹奏楽出身の人は,ブルックナーをやった人というのはほとんどいないと思う.そこから入ると,存在すら知らなくてもおかしくないように思う.)最初に聴いたときから,あまりのすごさに戦慄が走った.オルガン的なサウンドで,特にホルンの使い方がすごい(19世紀末という時期なのに6本も使っている).対位法がうまい.数小節程度のフレーズがいくつか執拗に繰り返されるのだが,それが何度も同じ雑念が頭をよぎるような効果を生んでいて,普段の私自身の雑念のパターンとマッチするような気がして共感できる.
私はブルックナーと同時代人のブラームスの交響曲が好きになれないのだが,ブルックナーは私的には「はまれる」音楽である.

しかし,ライナーノーツの言っていることがよくわからないと思うところも多かった.よくわからない筆頭が,ブルックナーは「弱い」といった記述であり,続いて,交響曲にさまざまな版があるということだった.そのあたりについて,すっきりしたいという気持ちが強くなっていた.そんなわけで,本書を読んでみようと思ったわけである.

本書の構成は,
序言
1.ブルックナーの問題点
2.幼・少年期のブルックナー
3.若い学校教師
4.聖フローリアンでの十年
5.リンツ大聖堂のオルガン奏者
6.ウィーン音楽院の教授
7.音楽都市ウィーン
8.両派の争いの間で
9.敗北と成功,そして死
10.ブルックナーの交響曲の植物的な統一
11.形成 関連 特性
12.改訂のジレンマ
・年表 証言 作品表
・訳者のあとがき

となっている.全体としては,前半部分が伝記,後半10章以降がブルックナーにかんする音楽論といった感じである.
読み終えてすでにずいぶんと日が経っているので,伝記部分で印象的なことといえば,不正確だとは思うがまとめると,だいたい以下のとおりである.幼少期には教師になるべく育てられ,非常にくそまじめで融通の利かない感じの性格であったということ.当時は教師になるには教会音楽について知り,オルガンをある程度弾けないといけなかったということ.ただし,そのような音楽は,いわゆる芸術音楽とは方向性が違っていたということ.しかし,ブルックナーのオルガンの演奏技術は抜きんでており,即興演奏なども得意としていたこと.かなり年を食ってからウィーンに出たが,元来社交が苦手で,ワーグナーとブラームスとの抗争に巻き込まれ流されたこと.自分の作品に絶対の自信が持てず,批判をおそれ,人に相談したりしながら改稿を続けたこと,またそのために版がいくつかある作品があること.権力に対する考え方が偏っていて,学校にこだわり,ウィーン大学の教授となることを求め続け,ついに実現したこと.彼の音楽は,ウィーンにおいてよりも他の都市において認められたこと.といった感じである.
そんなところから,彼の音楽で随所にオルガン的な響きが作られるのは,やはりオルガン奏者という背景があるからだということがわかってきた.
ブルックナーの「弱さ」とは,芸術家に必要なある種の高慢さ(「お前らにはこのよさがわからんのか!」といった感じ)がなく,批評家の批判に応えて改訂を加えるといったことをやってきたことにあるのだということがわかってきた.

私の関心は伝記的なところよりも,むしろ音楽論にあった.どの交響曲も何となく同じような雰囲気を持っており,冗長とは言わないまでも長大である.こういったブルックナーの音楽を著者はどのように分析し解釈するのかに単純に興味があった.もう少しいうと,そういった分析や解釈というものが,どの程度科学的であるかということに興味があった.今まで音楽論というものにほとんど接したことがないので,ほとんど何の免疫も持っていない.あるのは社会学(数理的・計量的社会学)という他領域で培った能力であり,そういう観点から音楽論というものがどのように見えるか,ということに関心があった.

しかし,結論から言うと,やっぱり理解不能だった.何といっても10章のタイトルにもある「植物的統一」である.ひどい揶揄なのかもしれないが,「草食系男子」「肉食系女子」とかいう社会学的に見てクソなふざけた概念(もちろんそれは社会学の用語ではない)と比べて異なる水準にあるといえるかかということである.「植物的」とはいったい何なのか.関連する部分を本書から拾ってみると,「[ブルックナーの交響曲に]肯定的な見解の人々は,ここに「植物的な統一」とでも形容されるべきものを認める.それは[否定的な見解の人々がいうように]固定観念への永続的な関連ではなくて,一つの根本理念への永続的な関連と見るのである.」(p.206) 「ブルックナーの全交響曲の,その相互に結びつけられた関連は単純ではない.それらが秩序づけられている構造は,大きな相互関連の深さを持つ,閉じられた世界を示している.」(p.206) このあたりですでにお手上げなのだが,
1.固定的観念への永続的な関連ではない,
2.一つの根本理念への永続的な関連である.
3.交響曲が秩序づけられている構造は,深い相互関連を持っている閉じられた世界である.
私は日本語の理解が深くないことは認めざるをえない.自分には国語力がないので文学者にはなれないことも認める.しかし,1と2でいうところの「固定的観念」と「一つの根本理念」は,何か根本的に違うのだろうか.素人的に思うことを述べれば,前者はあくまでも個人的で多くの場合あまり価値のない思いこみみたいなものであり,後者は一般的で普遍的に価値のある考え方といったものだろう.そんな素人的な考え方が認められるのであれば(あくまでも仮定の話だが),問いたいのは,そういったものの違いを区別するものは何かということである.「お前のような無教養なものにわかるはずがない」と言われるかもしれないが,個人的にはそういった言い方は逃げ口上のように思われる.むしろ示してほしいのは,ブルックナーの交響曲のどういったところに「固定的観念」ではなく「一つの根本理念」が表出されているのかを示すことである.とりあえず,本書に具体的な記述はないと思われた.しかし,「引用個所にあるように,これは「全交響曲」において表出されているのであり,個別的にどこだということは言えない」と言われてしまうかもしれない.いやしかし,それはやっぱり逃げ口上なのではないだろうか.

また,統一感というものがブルックナーの交響曲全体に感じられることは,私にもわかる.それは,異なる交響曲間で同じフレーズが鳴っていたり,ブルックナー・リズムと言われる音型が随所で鳴ったりすることである.それはそれとして,こういった統一は,なぜ「植物的」と呼ばれなければならないのだろうか.「植物的」という言葉の明確な定義は示されていない.また,それと対義語になると思われる「動物的」といった表現についての言及や定義はない.結局,統一感があることは示せても,それが「植物的」と呼ばれなければならない理由は見いだせなかった.こんなことでよいのか.
さらに,「もし我々がブルックナーの交響曲の基本的な成長の法則を理解しようとするならば,その立証が試みられなくてはならない.ブルックナーの音楽における,いわば「原植物」を見い出すことが問題となる.」(p.209)しかし,「その立証にもし成功したとしても,それによって「植物的な統一」を極めて明白なものとして体験することが,だれにでもできるというわけではない」(p.210)という.卒倒しそうである.しかし,そんなに難しいことなのだろうか.グレーベが本書で示していることは,基本的にはパターンマッチングだと思う.おそらくパターンマッチングをするための基本となる音型など基本となる各種のパターンのことを「原植物」と呼んでいるのではないかと想像されるが,しかし,それによって「原植物」というものが発見できたとしても,「植物的な統一」を体験することが誰にでもできるわけではないとは,あまりにも人をバカにしている.なぜ,我々には「植物的な統一」を体験できる人と体験できない人がいるのだろうか.これには,いくつか解釈が可能であろう.
1.グレーベという人は「神」であり,我々に対して神託を与えている.神託は理解できない人,洞察できない人がいて当然である.逆に言うと,神の言うことを意味はわからずともひたすら信仰できるかどうかが重要である.
2.この後続くグレーベなりの「分析」は,数学を使ったかのような記述が続く.特に,2:3やら,6:9やらといった比を用いた「分析」らしきことをしている.「数の象徴的意義という問題を深く追求しない人,数の神秘から全く遠ざかっている人には,数が音楽の構造に極めて大きな意義をもっているということは,殆んど議論の対象とはならないであろう.しかし,かつてのフランドル地方の音楽やバッハに至るまでのバロック音楽は,建築学的な性格を持っていた.」(p.208)とあるように,多くの人々は数学が苦手である.数学のわかる人にしか「植物的な統一」は理解できない.数学の証明問題の中でも難しいものは,世界に数人しか理解できないものがあるという言説があるが,これはそれに似ている.
3.とにもかくにも無茶苦茶な論理であり,実際にグレーベの分析はひどい.わかる方がどうにかしている.
私の意見では,3が正しい.それを論証してみよう.
1.まず,神がいるかどうかは別にして,グレーベは神ではあるまい.ただひたすら信じよ,長いものに巻かれよというのは,非科学的態度にすぎる.別に科学的である必要はないと開き直るならば,それは人々にひたすら信仰を強制するファシストのようなものであると言えばよいか.いずれにせよ,1のようなものではないだろう.
2.「数」というものは重要かもしれないが,論じ方があまりにも稚拙である.ちなみに私は数理社会学者であり,多少とも数学や数理モデルになじみがある.私の目は数学者ほどではないにせよ,それなりのセンスがあるものと自負している.以下では,論理破綻している点について指摘したい.
ベートーヴェンとブルックナーのそれぞれ9つの交響曲について,その関連性を描いた図が示されている(p.206, p.208).しかし,その根拠ははなはだ心許ない.曰く「もし我々が,化学者が分子に対してするように,この結合の構造を象徴的に表すならば,それは次のようなものにちがいない.」といった程度である.ただグレーベ自身がそのように思った・感じたという以上の理由はないのである.こんなものは,数学でも何でもない.数に対するイメージを語っただけで単なるまやかしである.
「古典派の音楽にとっては,「二」が基本的な数である.「二」は一義的な対称性を持つ偶数であり,明白な一目瞭然とした性格を古典派音楽に与えている.」(p.209)「「三」という数字は,ブルックナーの全作品で,殆んどとらえきれないほどの重要な役割を果たしているのである.」(p.208)「「三」という数字はあまり合理的でなく,また同時に,一義的な対称性をもっていない.その構造はより複雑である.要するに基本的な数としては,「三」は音楽を複雑にし,背景のある奥行きの深い眺望を与える.その構造と経過に「三」という数が決定的に作用している音楽は,そしてさらに2:3という関係が公式として支配的である音楽は,「二」という数字が支配する音楽よりも,見通しはよくないかも知れないのである.」(p.209)「2:3という公式が,ブルックナーの交響曲のあらゆる層において作用していること,それが動機細胞のような小さな部分でも,ここの楽章の形式構造でも,そして終極的には全作品の包括的な輪郭においても,作用していることが証明されて初めて,我々は「ブルックナーの交響曲の植物的な統一」ということを,正当に語ることができるのである.」(p.209)という.
動機細胞という点からは,ブルックナー・リズムが2:3であることが論拠とされる.これはまあよいだろう.とりあえずこういったリズムが散見されるのは確かである.
楽章の形式構造という点については,交響曲第7番の第1楽章の提示部について,それが明白な実例として取り上げられているのだが,曰く「この提示部は三つのグループからなるものである.つまり第一のグループは,和声から生まれた間隔をおいた音からなる主要主題である.」(p.216)「第二のグループは,全音階的な線的なインパルスから生まれた第二主題であり,これには和声は,いわば単につけられているだけである.そして最後に,簡潔な第三のグループであるが,その「偉大さ」は超人的な距離感を表現している.」(p.216)このあたりになると,かなり怪しくなってくる.提示部の9小節が3つの部分に分かれ,それが以上のような関係性を持っているのだという.しかし,例はこれ1つである.論証としては1例をもって「他にもいろいろある」と言ってしまうのは無理がある.例を挙げるだけでは証明になどならないのだが,いずれにせよ,科学的分析とは言えない.もっと言えば,自説を根拠づけるのに都合のよい例だけを挙げるという態度も納得できない.科学者としてなら相当にまずいことをやっていることになる.
全作品の包括的な輪郭については,交響曲を2群に分けている.第1群が3,4,5,6,7,9番の6交響曲と,第2群が1,2,8番の3交響曲である.そして,この分かれ方により,6:9あるいは2:3の関係があるのだという.(これがなぜ2:1ではなく2:3と呼ばれなければならないのかも疑問である.ブルックナー・リズムは2:3と言ってもよいと思うが,この場合,第2群は実質的には1の大きさしかないわけで,合わせて3というのは,言い訳がましい気がする.ともあれ,)その根拠が第1楽章の主要主題である.第1群では,根音,3度,5度,オクターブといった音を強調しているが,第2群はそうではないというところに区別の根拠を求めている.これについては,確かにあまりにも明白な気もするのだが,しかし疑義はある.まず,群の分かれ方が規則的とは言い難い.各群の交響曲の番号の並び方に規則的な美しさは感じられない.ブルックナー自身が,いろいろなものを数える人だったというエピソードによって数への執着を強調しているようであるが,この美しくない分かれ方は,グレーベの論を弱めているように思われる.また,常識的に考えてみても,ブルックナーが当初から9つの交響曲を書こうと思っていたかどうか,また,生涯に書くことになるであろう交響曲に対して当初から何某かの計画性を持って取り組んでいたかとなると,それは相当に無理のある仮説ではないだろうか.かたやワーグナーとブラームスとの抗争や,必ずしも成功しなかった自曲のプロモーションという状況にあって,初心があったとしても,それを貫徹できるような状況にはなかったと思わざるをえない.それができるなら,彼を「弱い」と表現することは相当に無理があるだろう.「三」とか「2:3」といった「公式」について,それは「彼の無意識の深層から出て来て,彼の音楽の成長に作用したものと仮定してよいだろう.」(p.217)とあるが,無意識とか無意識の深層というのは,完全に説明を放棄しているとしか思えない.現在の科学の水準においては(本書の書かれた30年前においても),無意識などというものを説明として使うのはギャグでしかない.
以上から,解釈の2については,数にかんする理解があったとしても,理解できるものではないということができるだろう.このように3つの解釈可能性について考えてみたが,消去法的に考えると,3の「とにもかくにも無茶苦茶な論理であり,実際にグレーベの分析はひどい.わかる方がどうにかしている.」というものしか残らない.現代風にいえば,グレーベの分析とやらは「トンデモ」仮説にすぎないとしか言いようがないと思われる.
さて,そんなわけで,音楽論というものについて,私はかなり怪しいと思うようになってきた.こんなものをありがたがって奉じ奉る必要など全くない.グレーベという人がどれほどの権威のある人なのかどうかは知らないが,私には雰囲気でものを語る人という悪い印象しか残らなかった.

こういったところから,私が考えた音楽評論のあり方は,以下のとおりである.
1.音楽構造の分析は,パターンマッチング的な手法で行っているようである.それはそれでよい.しかし,印象論にとどまらないように,最も明白な例だけでなく,少なくともいくつか例を示すべきである.それにしても,立証とか証明といった強い言い方をするべきではない.我々にできることは解釈に過ぎない.
2.1人の作曲家について,そもそも科学的に分析することができるのだろうか.ブルックナー・リズムについては私はあまり問題ないと思う.そういうパターンがブルックナーのさまざまな交響曲で散見されるというのは,例がいくつでも取れるので,科学的分析の俎上に乗るだろう.ただし,ブルックナー・リズムが独特であるというためには,他の作曲家と比べてこれの使用頻度が極めて高いことを実証すべきである.しかしながら,1人の作曲家について,その生涯に書いた交響曲全体に対してパターンを見出したりする作業は,あくまでも解釈にとどまると考えるべきであろう.それは,全体として1例に過ぎないからである.1例ではそもそも科学になりえない.作曲家というものは,同じ作曲家が2度と現れないということからしても,物理学において何かを予見させる例が1つ見つかったというのとはわけが違う.再現が不可能であるからである.比較的に他の作曲家との違いを分析することは可能としても,1例のためにそれを「植物的」だの「動物的」だの言ってみても仕方ない.それは何らかのイメージを喚起するかもしれないが(私には全く意味不明のままだったが),他との比較をもとに端的なイメージを与えるものでなければ,そのイメージには意味がないだろう.また,「植物的」という意味はよくわからないにせよ,おそらく「動物的」といった言葉と対になるのであろうと思う.つまり「植物的」という言葉は,2元論的な分類を想起させるものであるわけだから,他にも植物的という範疇に分類されるような作曲家がありうるかもしれない.そうだとすれば,「植物的」という比喩は,全体を2つに分ける程度の意味しか持たず,したがって,ほとんど何も解明したことにならないように思われる.もっとも,ブルックナーの同時代までの作曲家たちが「植物的」という範疇に分類される者が誰もいなかったというなら話は別であるが....しかし,本書においてグレーベは,交響曲全体の包括的分析としてはベートーベンとの比較しかしていない(しかもその部分さえ印象論に過ぎず,成功しているとは言い難い).論証は極めて部分的であるという印象を持たざるをえない.そんなわけで,どんな作曲家についてであれ,その人,その作品の全体的な傾向にかんする分析は,科学的に行おうとするならば相対的にしか行われえない.数が重要などと,いかにも科学を装うやり方,しかも,数理社会学という多少なりとも数学にかかわる者からすれば,極めて粗っぽい「数学的」論証は,読者を煙に巻いているとしか思われず,このようなやり方は忌避されるべきであろう.数や数学を持ち出さないで,単なる解釈だというなら大目に見たい気もあるが,ほとんど似非数学としか呼べないものを科学的な装いのために利用することは,非専門家をバカにしている気もするし,実際,数理モデルを扱う者を納得させるものではない.
全体的な感想としては,音楽評論家全体としてはどうか知らないが,一部には知ったかぶりをするような人がいるということであった.それでも少し救いの手をさしのべるとすれば,これは音楽評論に限ったことではなく,どの世界にもいるものである.私も日本社会学会だったかでひどい発表を聞いたことがある.詳細は忘れたが,社会の類型論か何かをするつもりだったかで,ある種の社会についてそれが「虚数のイメージ」だとか言っていた発表があった.当時私は血気盛んな若者だったので,「虚数とはどういう意味か」,「虚数はかくかくしかじかの性質を持っているが,その類型においては虚数のこの性質はどのように反映されているのか」などと,ぐうの音も出ないほどやりこめた覚えがある.ともあれ,何事においても,本当にきちんとした理解もないのに数学的装いを持ったまやかしの文章は書くべきではない.
グレーベの原典の出版から30年以上が経過している.音楽評論のあり方もずいぶんと進歩している可能性もあるが,周囲の音楽関係者たちから感じられるのは,社会学会などは比較にならないほど権威主義的で閉鎖的な領域であることである.こういう状態においては,出る杭は打たれたり,しがらみにとらわれたりと発展が遅い可能性もある.(ある意味うらやましいと思うこともある.大学の先生たちが演奏するとファンがついたり尊敬されたりする.私など研究室に配属されて半年も経たない学生に「辻さん」呼ばわりされる.全く威厳も何もあったもんじゃない.)もう少し新しい評論も読んでみたい.まだ諦めきったわけではないが,少し心配もしている.
ただ,これももう30年も前くらいかと思うが,ホフスタッターが,ショパンの幻想即興曲か何かの分析で,左手の8分音符の6連符に対して右手で16分音符8つが入るというような3:4の型がショパンの音楽には随所に見られるといった分析だったような気がする.しかし,それは数学的にはまともだとしても,「そんなもん,言われんでもわかってるわ.弾いていたら誰でも思うことやろ.」という感じの非常につまらない分析だったような気がする.音楽の構造を理解するのは基本的にパターンマッチング的手法が用いられるようだということはわかってきた.そういうことであれば,時間さえあれば自分にもできることかもしれない,などと思ったりもする.もちろん,暇はないのでやらないだろうが.しかしともあれ,分析をきちんとやれば,単なる解釈ではなく科学的になりうることもあるのだと思う.少なくとも評論家自身の単なる印象のようなものを,素人相手ならごまかせるというようなつもりで開陳しない方がよいと思う.それは人を惑わす知的詐欺である.
私にできる評論,できない評論があることもわかってきた.できる評論は,楽曲の構造分析である.暇があれば水準以上のものを出せるような気がする.しかし,できないのは,たとえば同じ交響曲の数多くの版を評価することである.これはどういうことを基準とすればよいのかがよくわかっていないから(自分では好みはあるが,それがどういうものであるかきちんと言語化できていないし,一般的にどういう点を評価基準にするべきかを知らないから)である.
先日同じ学部のF先生と飲んでいたときに,「究極の目標は数学で音楽を理解することです」と言ったら「そんなことできっこない」とばっさりと切り捨てられた.しかし,今の工学者たちがやっている音楽の分析は,これで何もかも解明できたというレベルには達していないものの(たとえば,大阪大学の沼尾先生の研究など),数学でできる部分はまだまだ残されているようには思う.最後までやり通すことはできないにせよ,最初から理性による到達を諦めるのではなく,理性によっても理解できない残余としてどういった部分があるかを明らかにしていくことが重要であるように思う.

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