2.2.旅行日記の最近のブログ記事

6月末から7月初旬にかけてイタリアに行ってきたが,その中で,日本の過疎地域の公共交通の参考となるかもしれないものを見たので,記録にとどめておきたい.
それは,コンテナ1つを引っ張っていた公共のバスであった.

日本の過疎地域は,採算が取れないので,バスなどの公共交通が撤退していくというのが,よくある姿である.しかし,コンテナを引っ張る,あるいは,貨車を引っ張るというのは,多少なりともバスの運行のために貨物業者から対価が入ってくることを示している.また,バスは定期的に運行されるから,定期的に荷物が届くという貨物業者・利用者にとってのメリットもあるだろう.

別にイタリアのとおりにやる必要はない.バスに空席が多いようなら,バスの後方を荷台にするという手もあるだろう.いろいろなアイディアを出して,過疎地域への公共交通を確保しないといけない.日本では思いもかけないバスとコンテナの組み合わせであるが,それを一度見てしまうと,自分の発想が貧困だったことを思い知る.さまざまなアイディアを模索できればと思う.
6月末から7月にかけてイタリアのRiva del Gardaで行われたSunbelt XXXに行ってきた.
景色もよかったし,本場イタリアンの味はガーリックでごまかさないのだということがわかったりと,本当によい学会だったのだが,インパクトという意味でいうと,バスの中で出会った酔っ払いのおっさんほどインパクトのあったものはなかった.
そのときには,思わずtwitterで実況中継もやった.そのうちログが消えてしまうだろうから,その熱気をとどめておこう(日時は,日本時間).

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2010年07月04日(日)

ローカルのバスの中なう。酔っ払いのおっさんらがやりほうだい。運転手が叱るとおっさん逆切れ。バス止まる。やれやれ。
posted at 02:44:25

いろんな人が止めに入って、すごいことになっている。一番強そうな兄ちゃんが、他の乗客に向かって、英語でソーリーだって。日本でもありそうな光景。
posted at 02:50:30

イタリアに来て一番インプレシブな事件 笑
posted at 02:52:12
---ここまで---

湖水浴帰りなのか,酒に酔った上半身裸のおっさんが,手すりにぶら下がって器械体操まがいのアクロバットをやらかしたり,車内で酒を飲もうとしたところ,「車内は飲酒禁止だ」(イタリア語はわからないがたぶんそういうことだと思う)とバスを止めて注意しにいった運転手に逆ギレし,その後しつこく何度も運転手に絡みに行ったり,全く無関係の優しい淑女になだめられたり,インド系の男性に絡んだり,やりたい放題,し放題.日本では,ここまでのレベルの酔っ払いは見たことがなく,サンプル数1で恐縮だが,「ああ,イタリア人って何かすてき」と思ってしまった.

また,そのおっさんの知り合いなのか家族なのか知らないが,ともかく,そのおっさんの「身内」みたいな人が数人乗っていて,おそらく妻とおぼしき人が,かなりの剣幕で「いい加減にして」とか(イタリア語はわからないがたぶんそういうことだと思う)注意するのだが,おっさんは,そのときには「わかったわかった」みたいなそぶりを見せるのだが,すぐにまた暴れ出すという繰り返しだった.あまりに状況がひどくなると,身内の中の一番がたいが大きくて強そうな兄ちゃんが飛んでいって「おいやめろよ」というようなことを言うと,一時的には少し大人しくなる.
ここで特筆すべきことは,その身内が,一切体を張った制止をしなかったことだ.あくまでも注意するだけ.一切体には手を掛けないのである.これこそが最もインパクトのあったことだった.妻とおぼしき人も鼻と鼻がくっつくような感じで注意するのだが,手は触れないのである.
なぜそうなのか,よくわからなかったが,これが彼らなりの他者に対する尊厳の認め方なのか.これがイタリア流,あるいは北部イタリア流個人主義なのか.

と来たところで,いきなりパットナムの話になるのだが,Riva del Gardaは,イタリア北部のリゾート地である.見たところおっさんらは観光客ではなく地元の人がちょっと一日湖水浴に来たという感じがした.やり放題のおっさんが存在し,しかしそれを真剣に怒りながらも手は出さないというのは,イタリア北部で民主的制度が発展していることと何らかの関係があるのだろうか.
酔っ払いのようなぐちゃぐちゃな話で申し訳ないが,酔っ払いのおっさんから民主的制度の話は,あまりにもギャップがありすぎるか.そうかもしれないし,意外にそうでもないのかもしれない.とにかく,記憶に残りいろいろと考えるネタにはなったおっさんであった.

5月31日(日)に,学生を連れて,中越地震の被災地である旧栃尾市の中野俣小学校に行ってきました.詳細は,こちらをご覧ください.
 タイトルのとおりである.
 ことのはじめは2月.私は公用で松本から大阪に向かい,特急「しなの」に乗り込んだ.暖冬ではあったが,2月の終わり頃,塩尻を越えて木曽路にはいると,次第に白い雪が目立ってくる.奈良井宿あたりになるととても風情のある光景になってくる.そのあたりでヘッドフォンを取り出して何気なくモーツァルトの「交響曲40番」を流し始めた.するとその光景は,絶景へと変わったのである.
DSC00156.JPG 何ということだろう.こういうのをまさに「はまる」というのだと思う.谷間を走る線路にのしかかる白い山とどんよりとした空.物憂げな40番の旋律が,関西系のつっこみで言えば,まさに「そのまんまやがな」という感じなのである.
 40番の1楽章の34小節目あたりのバイオリンの8分音符の上昇が4回(4小節)続き,その後4小節で第1バイオリンのメロディが他の弦パートの8分音符の刻みにあおられてアジタート気味に聞こえるあたりや,153小節目あたりのバイオリンがヒステリックな旋律を奏でるあたりの疾走感は,列車が走り車窓が流れていく感じともマッチして,絶妙な雰囲気を醸し出す.
 冬が去り,GWとなり,白い雪は消えて緑に覆われるようになった.GWに続く週末には所用で関西の実家に帰ったが,名古屋から戻ってくるときに,試しにと思って木曽路に入ってまた40番を聴いてみたのである.
 すると,意外や意外,日の降り注ぐ緑の中でも,曲が短調であることがかえって緑の明るさを引き立たせるようで,これまたよい雰囲気になったのである.(残念ながら,この間は写真は撮っていない.)
 ともあれ,季節は違っても,木曽路には40番が合うようである.一度機会のある方はお試しください.

追記:
 私が聴いていたのは,ベーム指揮ウィーンフィルでした.今日,アーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団を聴いてみましたが,たぶん,これだとはまらないと思いました.古楽器のお勉強的な色気のない弦のボウイングはたぶんダメです.これは私の古楽器演奏へのバイアスもあるかと思いますが.ともあれ,私が思うに,いわゆるベーム的な感じの演奏が合うのではないかと思います.(5/16)

 今,長野県で最も観光客を集めているのは,たぶん長野市の善光寺であろう.7年に1度の御開帳で回向柱に触るまでに2時間ほどもかかるらしい.
 そんな善光寺には見向きもせず,今日は休みを利用して諏訪大社に行ってきた.午前中にいろいろと雑用を済ませ,13時ちょうど発の電車で下諏訪駅に向けて出発した.小淵沢行きのこの電車,3両編成ながら結構人が乗っていた.途中の駅でも思ったより多くの乗り降りがあって,それにも驚きであった.
 下諏訪駅に降りるのは初めて.いつもは特急で素通りする駅であり,このあたりの駅には各停のように止まるので,いつもいらいらする.駅周辺は落ち着いていて,あまり人通りはなかった.休日だからか,いつもそうなのかはよくわからなかった.
DSC00544.JPGのサムネール画像 駅を降りて,まずは腹ごしらえ.事前に調べていった「うなぎ林屋」に行った.諏訪湖周辺はうなぎや川魚が名物である.林屋では,「二色重」を注文.蒲焼きと塩焼きとを楽しめる.私のような,あれもこれもと思う人にはちょうどよい.塩焼きの方は少しガーリックが入っていて,そそる味だが,関西人の私には,もう少し鰻そのものの味がわかるくらい薄味でもよかったかな.蒲焼きの方はたれがしつこくなく,鰻もあっさりしていておいしかった.ついでに「横笛林屋オリジナル」というお酒を注文.諏訪市で「横笛」という銘柄を出している伊東酒造のものであった.特別本醸造で色は透明だったが,すっきりではなく,少し混じりけのある感じの味で,一口目はやや意外な風味であったが,そのうち鰻重といい感じに絡んで飲みやすくなっていった.
 さて,今回諏訪大社に来たのは,研究目的とかではなく,お礼参りである.だから,あまりご託を並べたりはしない.お礼参りというのは,私を信大に導いてくれたことへのお礼である.前任校から信大に移ってくる間にはかなり紆余曲折があったのだが,その間,私は自宅のすぐそばにあった地元の諏訪神社によく参っていた.私はそれまで神頼みをするような人間ではなかったのだが,1年ほど前は,ただただ道が開けることをひたすら願っていたのである.毎日というわけではなかったが,神社の前を通るたびに,手を合わせていたのである.信大に奉職することになり,ほぼ毎週週末に東京に向かうあずさで諏訪大社の前を通過しながら,早くお礼参りに来たいと思っていたのである.春になり,暖かくなってきたこともあって,今日思い立って出かけたというわけである.
 諏訪大社についてはほとんど事前の知識はなく,行きがけにウェブサイトを調べて,春宮と秋宮があることを知ったりと,かなりいい加減な感じで行った.距離的には,下諏訪駅から春宮と秋宮を回って駅に戻ると,ちょうどよい加減の散歩になる感じであった.春宮は改修中で白いシートがかぶせられていて趣なし.
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仮の参拝所でともかくお礼参りをした.春宮から秋宮にかけては,途中少し小高い道(これが旧中山道らしい)を通るのだが,諏訪湖が見えてとてもよい眺めだった.
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秋宮の方が人気なのか,神社の前にはいくつもの観光客目当ての土産屋やそばやなどが並んでいた.
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お参りしたあと,少し外れたところに塩羊羹の看板を上げている「新鶴」というお店があり,しばらく日持ちもするということなので,塩羊羹を買った.今度妻子がこちらに来るときに一緒に食べることにしよう.
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DSC00597.JPGのサムネール画像 駅に向かったが,電車の時間の関係で少し中途半端な感じだったので,「林屋」の近くにあった「信州あべ川餅」という看板があった「福田屋」というお店に行ってみた.少しだけ安倍川餅を買い求め,そこの主人に話を聞いた.主人は3代目で,初代はやはり静岡からやってきたそうである.8月末頃の秋宮のお祭りの時に,その安倍川餅を「御射山(みさやま)餅」という名で売るのだそうだ.きなこがおなかによいというところから,縁起物として定着しつつあるとのことであった.
 というわけで,今日はあまり社会学者しないことを目標としていたが,最後につい話を聞いてしまった.
 それにしても今日は穏やかでよい一日だった.GWは比較的よい天気が続くらしい.信州はまだ朝晩の冷え込みはあるが,梅雨までの期間はよい季節を楽しみたいものである.諏訪の神様に感謝しつつ.
 3月22日から23日にかけて,私がフィールドとしてきた新潟県旧栃尾市を訪れた.昨年10月に学生を数人連れて訪問して以来である.22日は,前日の卒業式の疲れが残っており,午後から出発したために,長岡駅に到達するだけで終わってしまった.
 23日,前日に急にではあったが,半蔵金区長さんがインタビューを受けてくれることになり,午前中に半蔵金地区センターを訪問した.2,3年前くらいは,かなりお体が悪いようで,インタビューを依頼してもなかなか受けていただけなかったりしたのだが,この日は,急な申し出にもかかわらず受けていただけた.お顔を拝見する限り,当時と比べると顔色もよくなられているようで,区長さんも体重が戻ってきたとおっしゃっていた.しかし,今度は数ヶ月前に大きなけがをされたようで,たいへんな状態は続いているようであった.
 インタビューの具体的な内容をここに記すのはやめるが,栃尾の中でも最も被害の大きかった半蔵金地区でも,各種の工事などはようやく一段落し(もちろん何もかもが完全に元に戻るということはないものの),ようやく落ち着きを取り戻したという感じが見受けられた.地区センターの2階の広間に案内してもらい,ちょうど前日に開かれたという「小規模水道」(簡易水道のようなもの)の竣工式の横断幕を見せてもらった.これまで各人が持っていた水道設備を一元化する工事だったらしく,これを機に当地の人々の結束が水道設備のようにますますまとまることを祈る次第である.
 お昼ご飯を食べるまもなく,中野俣小学校に向かった.途中,杜々の森の様子を見ておこうと寄り道したが,今年は例年になく雪が少なく,道を選べば靴が雪に埋もれてしまうこともなかった(確か一昨年の今頃は,膝上くらいまで埋もれる感じであった).ところで,あろうことか,ここでデジカメの電池切れ! 何てこった.意外に持たないのね....白い杜々の森は,この時期しか写せないのに....栃尾の中でも雪はほとんど見られず,森上や半蔵金,西中野俣といったところで多少の雪が残っているものの,他の地区では雪はほとんど消えていた.本当に暖冬であったことが感じられた.
 小学校に到着すると,その日は終業式で,翌日の卒業式に向けて準備が進められていた.木造校舎の一角にある体育館の一辺にステージが設けられているほか,来賓席・客席などが設けられ,素晴らしい式典になることを予感させるものであった.「明日,会議がなかったらなぁ」と思わずにいられなかった.以前も卒業式の前日に来て翌日は戻らないといけなくて残念な思いをしたが,今年もまたであった.ともあれ,学校に残って明日のための準備を手伝っていた数人の子どもたちのなじみの顔を見ることができ,相変わらず元気でたくましく,そして秋よりも一回り大きくなっているようでうれしかった.
 校長室に通していただき,校長先生と2,3時間くらいお話しした.初めに,今度中野俣地区の復旧・復興事業の1つとして出版される震災と地域の記録の書物に私が寄稿した文書の校正の確認.それから,学校教育のこと,地域社会のことなどをいろいろと伺った.いつものことながら,富澤校長先生のクリエイティビティと行動力には頭が下がる思いであった.全てのことをポジティブに捉えてよりよい方向に変えていこうとされるお姿はいつも魅力的である.私も自分が子どもの頃にこのような校長先生に巡り会えていたなら,学校はどれほど魅力的な場所であったかと思う.私のような時折のビジターだと特に魅力的な点ばかりが感じられるということもあるのだろうが,ともかくいつも楽しげな校長先生を見て,どのような組織であれ,ボスが魅力的で楽しげに仕事をしていると組織に活力が出るというのはきっと正しいと思う....自分もあまり学生の前ではぼやかずに楽しげにしておいた方がいいのかな,とちょっと反省.また,富澤校長先生については,別に書くことがあるかもしれないので,ひとまずこれまで.それから,昨秋発行された『社会学研究』に掲載された論文の抜き刷りもお渡ししてきた.このくらいが私の方からできることである.
 今回の訪問は,突然決まったものだったので,半蔵金と中野俣小学校だけであった.それでも十分に濃い中身だったが,中野俣地区の区長さんや住民の方,栗山沢の区長さん,仮設住宅の区長さんなどには会えなかった.またの機会としたいと思う.
 しかし,年に1,2度の訪問でも,もう4年になる.栃尾は,すでに私の中で大きな位置を占めるようになっている.研究の対象ではなく,自分の心のふるさとになりつつある.

 数理社会学会が京都市の北の外れのある大学で行われた.これをよい機会と考え,空き時間を使って,左京区の修学院小学校区を歩いてみた.修学院小学校は,私が小学校の4年生(昭和50年度から53年度)まで学んだ学校である.(もしかすると現在の学校区と当時の学校区は異なっているかもしれないが,重要なことは場の記憶があることである.)校区には,その名のとおり修学院離宮があり,曼殊院・詩仙堂・一乗寺下り松といった全国的にもよく知られた史跡の他,赤山禅院・鷺森神社といったところもある.小学校4年生までしかいなかったので,それらの史跡の価値などわかるはずもなく,後になって初めて,観光客がわざわざ行くところだったのだと出自を誇らしく思ったりしたものである.学会がよい機会と考えて,叡電修学院駅前の比較的新しめのホテルに泊まることにした.
 7日(月)の朝,朝食を食べて散歩を始めた.まだ店が開く時間より早かったので,まだ店は続いているのか畳んでしまったのかはわからなかったが,山端の修学院マートはまだあったし,プラザ修学院(当時は「修学院プラザ」とか「プラザ」と呼ぶことの方が多かったと思う)に至っては,30年前にあった精肉店・鮮魚店・青果店・サンリオショップなどがまだ残っており,全国的にシャッター商店街が増える中,よく頑張っているなあと感激した.おもちゃ屋さんはなくなっているようだったけれども....その近くにあった友達Bちゃんの家は取り払われてしまっていて,彼はいったいどこへ行ってしまったのだろうかと彼の身の上を案じた.プラザの裏側には集合住宅があり,そこにK君が住んでいた(彼は,その後校区内の葉山に引っ越した).K君とはその路地でよく遊んだ.爆竹などで,ここには書けないような遊びもした.たぶん,そういう遊びは誰もがしていたのだが,今は子どもたちがそういう遊びをすることは,あまりないのかもしれない.
 修学院小学校への道中にも旧友E君の家があった.家というよりもお寺で,まあ当たり前だけど,お寺は以前のとおりそこにあった.音羽川沿いの道は,ちょうど小学校に通っていた頃に歩道がきちんと整備されるような工事がされたような記憶があるが,少なくとも1,2年生の頃は,歩道は舗装されておらず,雨が降るとぬかるみが出たりして,それはそれで楽しかった気がする.また,音羽川自体も,今ではコンクリートで河床と両側の壁面がコンクリートで塗り固められているが,当時は今よりも川幅の小さな川だった.雨が降ると水かさが増し,かなりの濁流が流れていた.確かに危険だということで工事がされたのだろうが,何の色気もないコンクリートの川になってしまい,今となってはとても残念に思う.

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(音羽川沿い.遠方に比叡山を望む)

 小学校の門に着くと,門は施錠はされていないものの閉ざされており,グランドでは,スポーツ少年団の野球チームの子どもたちが,遠投のキャッチボールをしているところだった.遊具類の場所などは,ほとんど当時と変わっておらず,とても懐かしかった.しかし,グランドの一番奥にあった講堂は,取り壊され,そこに体育館が建っていた.門のところに野球の少年たちを見守る指導者の人(50代半ばだろうか)がいて,少し話をした.その人も小学校の卒業生だったそうで,昔は一番奥に木造校舎があったとか,石炭ストーブで石炭当番があったとかいう話をした.その人も「懐かしいなあ」と言っていた.

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(修学院小学校のグランドで野球の練習をする子どもたち)

 正門に回ると,そちらは開いており,そこから入って,昔の講堂の跡地に建っている体育館のあたりをぷらっとした.体育館には校歌のレリーフがかかっていた.歌詞は3番まであるようだが,私がいた頃には,朝礼の時など1番の歌詞しか歌わなかったと思う.1番は今でも歌える.当時,歌詞の意味は難しすぎて全くわからなかったが,子どもが知らぬ間に覚えてしまうように覚えたのだろう.歌詞の中には,「修学院」とか「母校」とかというありきたりな言葉は1つも入っていない.明治時代に開校した頃のその近辺の風景が詠み込まれているのである.1番の歌詞は,小学校の東にそびえ,毎年遠足とは別に登山が行われていた比叡山―6年生は頂上まで登るが,学年が低くなるほど登る高さも低くなった.おやつは配布されるドロップの缶1つだったように記憶している―を讃える内容である.小学校のウェブサイトで歌詞の確認と歌を聴くことができる.
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/syugakuin-s/

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(校歌のレリーフ)

 その歌詞にもある比叡山だが,学校のある場所は,比叡山がもっとも美しく見える場所の1つだろう.これよりも山側に行くと,ややずんぐりとした形になってしまう.学校開設に当たり,明治の人々は,どこから比叡山が美しく見えるかということも考慮に入れたのではあるまいか.
 写真を撮ったりしていると,そこの教員と思わしき人に声をかけられた.怪しいものではないことを示すために,自分が昭和50年度入学で4年生までいたことなど,名刺を渡して話をした.その先生は教頭先生とのことであった.しばらく昔話や現在の話をしたりして過ごした.ますます懐かしい気持ちになった.教頭先生からは,今いろいろな講師の人を招いて話をしてもらったりしているというような話を伺い,自分も何かできれば声をかけてくださいと伝えておいた.
 学校を後にして,東の方をめがけて歩いた.途中あちこちと迂回しながら,赤山禅院に向かった.途中から小学校の裏門から延びる道に入った.このあたりは本当に30年ぶり(そのあたりには史跡が多いので,そういう場所に案内に来ることもあったが,表の道しか通ることはなかった)で,学校から課外授業に出かけたときによく通っていた道であった.そういえば,そのときに蛇が出てきて大騒ぎしたなとか,記憶が蘇ってきた.そのあたりにも多くの友達が住んでいたはずで,班でお楽しみ会とかの準備をするためにその家を訪問することもあったのだが,その場所がどこかはわからなかった.それでも,新しい家もあるものの,かなり当時からの家屋も残っており,ところどころで,そういえばこんな家があったなとか(別に特別な建物ではなくても),当時の記憶が30年ぶりに喚起されることが何度かあった.しかし,1つ違うのは距離感覚であった.子どもの頃は遠いなと思ったところが意外にそうでもなかったり,だいたい思ったとおりだったりしていたことである.人間の記憶は面白いものだなと思った.
 赤山禅院の入り口まで来て,そういえば,その参道の脇に流れている小川のところでよく遊んだなと思い出した.その近くにN君が住んでいて,ここでよく遊んだのだった.N君は今でもいるのだろうかと思い,少し探してみると,彼の名前の表札が出ていた.お父さんではなく彼の.彼はまだここにいるんだなと思った.人が中にいる感じもしたが,いきなりではぶしつけなので,特に何もせずその場を後にした.
 赤山禅院は,30年ぶりということはない.その後もしばらくは初詣に来たりしていたこともあった.たぶん,10年ぶりくらいではないだろうか.赤山禅院にはある思い出がある.小学校から写生大会に来たことがあった.たぶん3年か4年かの秋の頃だが,私は参道の脇のところから,参道を挟んで向こう側の木々を描いた.その場所もだいたい覚えていた.私の絵は下手だったが,その近くでクラスメイトの女の子が描いた絵が素晴らしかったことを思い出した.秋だというのに空がピンク色で,まるで桜の花が咲き誇っているかのような絵だったのである.もちろん,秋の絵なので桜は描かれてはいなかったのだけど.また,言うまでもないが,木々の枝振りの描き方もうまかった.そして,今となればわかるのだが,点描画の手法を使っていた.ともあれ,大人が描いても,あの空はあのようには描かないだろうなと,今でも思う.ともかくあの絵は抜群にうまかった.30年経っても記憶されているクラスメイトの絵.たぶん,私にとっては,美術館で見た巨匠の絵よりもインパクトを持っている絵である.

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(絵を描いた場所からみた木々)

 また,赤山の写生の時の思い出としては,参道から境内に上るところの階段で遊んだことである.よい子がまねをするとよくないので,具体的には書かないが,悪知恵だけはよく働くガキだったので,先生に怒られてお灸を据えられたのが今となってはよい思い出である.

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(件の階段)

 赤山には,お姿みくじがあって,それもここのお楽しみの1つである.一通りお参りした後に,久しぶりにそのおみくじを引いた....でも,このおみくじ,一頃よりも値段が高くなってないかな? 後になって気がついた.まあ,楽しめたし,それはそれでよいのだけど.

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(お姿みくじ...後ろの大きい人形ではなく,手前の小さいのの底におみくじが入っている)

 赤山の参道を戻って,もう少しだけ先に行ってみた.すると,そこで昔と同じ光景を見たのである.そこは,以前と町並みがあまり変わっていないというだけでなく,そこに青いトラックが止まっていたことまで同じだったのである.子どもの頃も,そこに青いトラックが止まっているのを見た覚えがあるのである.そこの住人がその手の仕事をしているからなのだろうが,30年も前の光景が青いトラック1台を手がかりに蘇ってくるのは驚きであった.
 その後は,修学院離宮のあたりから,鷺森神社の入り口,詩仙堂の下,下り松のあたりまで歩いた.その途中で,クラスメイトだったM君のところは,まだ酒屋さんをやっているようであった.しかし,1,2年の頃仲良しだったOさんの家はどこだったか,全く忘れてしまっていた.次に,当時特に仲がよかった友だち2人の家がどうなっているか行ってみた.Y君の家は建て増しをしたのか少し様子が違っていたが,まだそこにいるようであり,K君の家はそのままだった.K君の家は当時は新築だったと思うが,庭を造り,いい感じに年季が入ってきているようだった.このまま帰ってしまうのも惜しいと思い,Y君とK君のところでメモ書きをポストに残してきた.また連絡が取れればと思う.また,当時行っていた散髪屋さんや,そろばん塾あたりにも立ち寄った.散髪屋さんは,結構繁昌している様子だった.そろばん塾だったところは,建物は外装を少しやり直した感じはあったが,平屋建てのままであった.あのときの先生とアシスタントのお姉さんは,今頃どうしているのだろうか.お姉さんの「用意,始め」のかけ声が独特だったのが思い出された.

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(そろばん塾だったところ)

 その近くに新しく「こせちゃ」という名前のパン屋さんができていることを発見.入ってみると,ご主人と奥さんが夫婦でやっているのかなと思われる素朴な感じのお店だった.お昼ご飯に3点ほど買ってみた.後で食べてみると,素材がよいことがわかる味だった.素材を活かすためにあまりこった味付けにはあえてしていない感じが好印象のパンだった.また,独特のふんわり感が印象的であった.値段設定も割安感があり,満足度は高かった.最近,こういうパンには,ありつけていないと思った.翌日もホテルから松ヶ崎駅に向かう途中にあったcote a coteというパン屋さんに行ったが,ここのパンも訴えるものがあっておいしかった.やっぱり,食べ物は関西の方がおいしいかなという印象を持った.そういえば,東京だと,チェーン店のパン屋しか行かなかった気がする.個人店は外れるんじゃないかという不安感が大きかったからかもしれない.
こせちゃ:http://www16.ocn.ne.jp/~cosecha/
cote a cote:http://r.tabelog.com/kyoto/A2603/A260303/26006206/
 その後,西浦畑公園を訪れた.ここも子どもの頃よく遊んだ公園である.この公園は上と下の2つに分かれていて,下の方は比較的広くて四角いグランドがあったため,常に2,3方向くらいから野球をしていた.野球好きの子どもたちが放課後になると集まってきて,よくやっていたのである.だいたい学年の近い子どもたちがまとまっていた気がする.私は野球に混じることはあまりなかったが,たまにはやったりしていた.今は,野球とサッカーは禁止という立て看板が立っていた.昔はサッカーは全く流行っていなかったので,もっぱら野球を禁止していたような記憶がある.たまに公園管理の人が来ると,みんなそそくさと退散したという覚えがある.公園の上の方は遊具と藤棚があった.今回公園に入ってみて感激したのは,当時の木々が結構そのまま残っていたことである.「ああ,この木あったわ」と幹や枝の感じを見るとわかるものである.30年間木々の形を記憶しているなんて思ってもみなかった.

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(西浦畑公園...手前の木などに覚えがある)

 そしていよいよ以前住んでいた清水町にやってきた.すでに以前住んでいた家はなく,ビルが建っていたが,入居者募集状態であった.テナントが入っていない状態なので,その場から周りを眺めてみた.向かいの写真とプラモデルのAさんのお店は店をたたんでしまっているようだったが,(イニシャルは同じだが異なる)A木工所はまだやっているようだった.通りの様子は30年前とあまり変わっていなかった.しかし,残念だったのは,京小町八ッ橋が開いていないことだった.看板は上がっているのでやっているのだろうが,外からガラス越しに中を少し覗いてみたが,機械が動いている様子がなかった.日曜日だったからかもしれない.昔は,ここのMちゃんと同い年で,よく倉庫や工場で遊んだ.まだ味付けしていない粉をこねただけの団子みたいなものをほおばったこと,生八ッ橋を焼いて硬い八ッ橋を造る円型の機械が面白くてよく見ていたことなどは,古きよき思い出である.そういえば,Mちゃんとやった遊びで印象に残っているのは,お墓ごっこである.近所の人の名前をかまぼこ板などに書いて墓石のようにして,庭に立てて遊ぶのである.あれはいったい何だったのだろうか.ああいう遊びはものがわかってくるとしなくなると思うが,子どもにとっては,お墓というものは,かなり面白い対象なのだと思う.

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(以前,家があったところ.今はビルが建っている.)

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(家の前からの風景...あまり大きな変化はない)

 裏通りに入ると,そこは少し様変わりしていた.Aさんのうどん屋(製麺)さん―ここには4つか5つ年上のお姉さんがいて,小学校の1年生のときには,近くの子どもたちを集めて学校に連れて行ってくれた.また,たまにそこにうどんを何玉か買いに行くと,独特の匂いがあって好きだった.―はなくなって貸しアパートになっており,Iさんの学生向けの下宿はなくなって空き地になっていた.近くのひいらぎ神社は,最近整備されたのだろうか,たいへんきれいになっていた.そこでも以前からあった木々がそのまま残っていることに気づいた.その木々は子どもの頃,Mちゃんと登ってよく遊んだので,あのへんに脚をかけて登ったかなと,昔の自分があたかもそこで木に登っている様子が思い描けるほど鮮明に思い出された.
 そこから修学院の駅に向かった.途中,牛乳店をやっていたK君の家を訪れたが,そこには普通の家が建っているだけで,以前とは様子が違っていた.もう牛乳屋はやめてしまったのだろうか.ちょっと調べてみたが,
http://9199.jp/phone_page/03870023/?guid=ON&cx=135.79271701&cy=35.04693493&vx=135.78851700999996&vy=35.051134929999996&zoom=16
によると,もう本業の牛乳屋はしておらず,別のものに乗り換えたのかもしれない.以前は,この場所とは離れた同じ校区内に,牛舎があり,そこで何頭も牛が飼われていて,たまに学校帰りに立ち寄って乳搾りの様子を見たりしていたことを思い出す.あの工場,今はどうなっているのだろうか.ちなみに,当時は牛乳の宅配をやっており,そのときの牛乳箱の写真がウェブにもアップされている.私も散歩している間に,牛乳箱を見かけた.当時はどこの家にもあった気がするが,今はレアもの扱いされている.
http://k-y-o-t-o.seesaa.net/article/41813011.html
http://k-y-o-t-o.seesaa.net/article/23515803.html
http://k-y-o-t-o.seesaa.net/article/11583125.html
http://blog.goo.ne.jp/radionova/e/d94c1c23fa93f06ca46ccd4fd009bfeb
K君,どうしているのかな.そのまま順調であれば,おそらく跡を継いで重役級なのだと思うけど.
 その近くには,ピアノを習っていたY先生のおうちがあったが,家は建て替えられ,表札はYではなくなっていた.ピアノのレッスンをやめられたという話は,ずいぶん以前に聞いた覚えがあったが,そこにあったものがなくなってしまっていて,寂しさを感じた.また,そのY先生のところに習いに来ていた近くのMさんのところでは,その日ちょうど葬儀が行われようとしているところだった.時代の流れというものを感じた数分間だった.
 その後,ひいらぎ公園を訪れた.この周りには2軒の駄菓子屋と1軒のパン屋があったのだけど,いずれもやっていないようだった.Yさんところは,駄菓子屋と文房具屋を兼ねた店舗だったが,完全に建て替えられていてかなり立派な家が建っていた.子どもの頃は,毎日50円とか100円とかをもらい,YさんところかNさんところのどちらの駄菓子屋で何を買おうかと日々子どもながらに思い悩んだ.

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(ひいらぎ公園...太田川の西側)

大きな思い出が2つある.1つは,ある日,妹がどうしても前日Yさんところで見つけたギターの形をした爪切りがほしいと言い出した.その日はどこかに出かける日だったので,開店まで待って買うことができなかった.妹を何度も諭したが言うことを聞かず,ついに私が妹に立ち会ってYさんところまで行ったのである.妹は閉まっているシャッターを朝っぱらからどんどん叩き,開けてもらった.妹は無事に?爪切りを買うことができた.立ち会う兄としては,非常に面目ない気持ちだった.いったいあのときの自分の役割って何だったのだろうか....愛想を振りまいて許してもらうことだったのだろうか.何か今でもそういうところは変わっていないのかもしれない.あの爪切り,結構後々まであった気がするが,今はどうなっているのだろう.もう1つの思い出は,アイスクリームの「王将」である.3色アイスの王将は,当時30円で当たり付き.50円の小遣いの中でも買ってお釣りが来るので,子どもの頃よく食べた.その王将だが,あるとき当たりが出た.だいたい当たりが出るか気にしているので,その場で食べる.当たりが出たのですぐに当たり棒を持っていってもう1つもらう.ふつうはそれで終わりなのだが,何とまた当たりが出たのである.喜々としてもう一度当たり棒を持っていき,もう1つもらった.そうしたら,またもう1度当たりが出たのである.さすがにこれにはびっくりした.しかし,もう王将はあのアイスクリームの箱(あれ,何という名称が正しいのだろうか)の中になかったのではないか.「おばちゃん,また当たったんやけど.もう王将あらへんと思うわ.」と言うと,おばちゃんは,「しゃーないな」と言いながら,別のアイスをくれたと思う.それで当たりの連続はとぎれてしまったが,3連続の当たりというのは後にも先にも記憶がない.しかし,子供心には,もっと王将があったら,もっと連続して当たったかもしれないという無念な気持ちでいっぱいだった.当たることしか考えなくなるなんて,めでたいものである.
 公園のところのパン屋さんには,あまり行かなかったが,たまにパンを切らしたからといって買いに行かされることがあった.ところで,今回の旅のどこかで,「進々堂」の文字を見つけた.そういえば,この頃進々堂って見ないなと思って調べてみると,これも京都のパン屋さんらしい.昔はどこのパン屋やスーパーでも進々堂のパンを売っていた.そのパン屋でも進々堂のパンを買っていたかもしれないなと思った.

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(ひいらぎ公園...太田川の東側)

 ひいらぎ公園は,太田川を挟んで公園になっていて,東側のところにひいらぎ会館がある.昔はここで習字を習っていた.もちろん,習字の半紙や墨汁はYさんところで買うのである.M先生はもう相当に歳を召された方だった.同じクラスのN君もそこに習いに来ていた.彼は私より常に1級上で,私は何とかして追い抜きたいというのが励みだった.彼は,あまりお手本にこだわらず,豪快に書くタイプで,几帳面な字を書く私とは好対照であった.彼のかすれた「はらい」は,ゆっくり書く私には出せない彼の味であった.

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(習字を習っていた「ひいらぎ会館」)

 太田川は,かれこれ2メートルほどの幅しかない川で,今はコンクリートに塗り固められていたが,昔はそうではなかった.八ッ橋屋のMちゃんとよく川に入ってカエルやザリガニをとったりしたものだった.橋の下をくぐると,クモの巣が張っているのが不気味でとても怖かった.また,川にはヒルがいて,脚をよくくわれた.たまにコイが泳いできたり,カメをとったりしたこともあり,とても面白かった.しかし,コンクリートに塗り固められた川では遊ぶ気にはならなかっただろうなと思う.

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(太田川沿いの道)

 最後は,S君の家のところに行ってみた.S君は,3,4年生で同じクラスだったが,頭もよく運動もできるという子で,テストでは,たいがい私よりも数点上で,ドッジボールをしても,当てるのもよけるのもとてもうまかった.女の子にも人気者で,私は子供心に嫉妬を感じていた.もちろん,友情を感じた上での話ではあるが.彼の家の場所はすぐにわかったが,家は比較的最近建て替えたようであった.以前の家がどんなだったかはよく覚えていないのだが,表札を見ると,彼の名前があった.2世帯住宅のようである.今,彼は何をしているのだろうか.
 ところで,修学院保育所の場所が変わっていて驚いた.以前は,母がそこで勤めていたが,母からそんな話を聞いたことがなかったからである.今は,修学院プラザと小学校の間の筋を少し東に入ったあたりに移っていた.
 修学院の駅から,叡電に乗った.叡電は,昔のようなクリーム色と緑色のツートンカラーではなく,1両1両カラフルなデザインになっているようである.

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(叡電修学院駅と駅に到着する電車)

 本当は,校区はもっと広かったのだが,時間の関係で南は下り松あたりまでしか行けなかった.残りの部分はまたいずれ訪れてみたい.今回,校区にいくつもある史跡は,赤山禅院を除いて行かなかった.4年生までしかそこにいなかった私にとって,史跡の歴史的重要性を感じるのはまだ早かった.そこは,私にとっては昔よく遊んだ界隈というような意味が圧倒的に強い.1つ1つの道に,1つ1つの店に,そこで誰と何をしたのかという記憶が詰まっている.その後もどんどんいろいろな記憶が再現されてきている.たとえば,赤山の近くのM君の酒屋の近くに,やはり駄菓子を売る店が残っていたが,そこでは,N君たちと,当時発売されてブームとなったチュッパチャップスや,はじけるキャンディ(残念ながら,どういう名前だったのか思い出せない)をそこで買って食べたことを思い出した.場所の記憶とはこういうものなのかもしれない.場所は単なる場所ではなく,そこで誰と何をしたのかという記憶とともにある.
 私は,自分の故郷が,少しずつは変わりながらも,まだ30年前とあまり変わらずに残っていることをたいへん幸せに思う.東京のような大都会であったならば,記憶を喚起してくれるような手がかりはなくなってしまっていたかもしれない.これは,京都だからなのかもしれないし,京都でも市の外れの方だからなのかもしれない.ともあれ,自分のルーツを感じられる場所が存在することは,本当にありがたいことである.
 最後に,やや恥ずかしながら告白すると,散歩をしながら,私の頭の中では,「冬ソナ」の「My Memory」が執拗に回っていた.カン・ジュンサンが自分の記憶を取り戻すために,高校時代の舞台をあちこち回るシーンがあるが,まさにそんな感じであった.記憶があっての自分である.

 この10月より,私は「NPO法人横断型基幹科学技術研究団体連合 分野横断型科学技術アカデミック・ロードマップ(社会システムのシミュレーション・モデリング技術分野WG [WG2])委員」というのをやっています.
 「は?」という感じですが,今後2050年くらいまでに,社会システムのシミュレーション技術をどのような方向性でどのくらい進めるべきかを考えるという仕事です.名前は出ていませんが,経済産業省がらみの仕事です.(私もそういう関係性については今ひとつよく分かっていませんので,これ以上は×.)

 さて,その委員の合宿が伊豆の川奈温泉にある早稲田大学の宿舎で行われました.その中での議論の内容の詳細はほとんど割愛し,主にその旅の様子を記録しておくことにします.

 ただ1つだけ,印象的な話があったので書き留めておきます.合宿のいわゆるメインの検討会の時ではなく夜の飲み会の時に,東大のある工学系の先生がおっしゃっていたことですが,工学が科学研究の成果に基づいて行われるようになったのは,そんなに昔ではないそうです.そもそも科学が未発達な遠い昔からものづくりはあったわけで,そのころは科学的根拠などなくても(わからなくても)ものを作っていたわけです.言われてみればそのとおりですね.ものの作り方を研究するというのが工学の本来的な意味なのだそうです.
 そこで思ったのは,社会学における「役に立つ社会学」の位置づけについてです.従来,社会学は,他の社会科学と比べると,実践的な指向が弱く,特に社会のために役立たなくてもよいという発想が主流だったように思われます.それは,私の師である高坂先生が「ミドルマンのすすめ」で論じられているとおりです.しかしながら,その論文でも,基本的なスタンスとしては,社会学の科学的な研究成果をふまえて社会に役立つことが論じられています.しかし,何とかして社会を変えていくというもくろみをスタートポイントとして始まる工学指向の社会学というのもありうるのかもしれない,とお話を伺っていて思ったのです.実際,地域社会の活性化を手がけているシンクタンクなどは,そのような立ち位置にありますね.そのようなシンクタンクは,必ずしも社会学の成果に通じているわけではありませんが,社会に対してどのように切り込めば,どのような反応が返ってくるかというノウハウを持っているようです.
 ともあれ,このようなことを考えて,自分が研究室の実践指向を持つ学生たちに,どのように対応すべきかについて,少しヒントになった気がしています.

 さて,以下は旅行記です.
 伊豆に来るのは,昨年(2007年)の夏休み以来でした.このときは,前職でゼミ合宿に伊東に行きました.熱海から伊東線・伊豆急に入り,車窓に青い海が広がると,当時のことが思い出されてきました.あれからまだ1年4ヶ月しか経っていないのかと思うと不思議な気がしました.(少なくとも私にとっては)楽しかった合宿のことが思い出されるとともに,どうしてこんなことになってしまったのかという思いがわき,何とも言えない気持ちになりました.合宿の両日ともよく晴れていましたが,行きの海は白波が立っていて,実際風の強い日でした.そのアンバランスな天候が,妙な気持ちをさらに増幅させているようでした.
 2日目(26日)の朝は早く目覚めたので,朝風呂に入った後,ダイニングから海と富士山の素晴らしい景色が見えました.少し外に出て朝の空気を吸いながら富士山の見える風景を楽しみました.そこで,帰りは富士山が近い身延線周りで帰ってみようと思いました.
 合宿は当初より早く終わったので,電車を乗り継いで富士駅まで行き,そこから特急にして一駅だけ乗って富士宮で降りました.(この間の特急料金は310円で,割安感があります.)なぜ富士宮かというと,うちの研究室の学生が,食を通じた街づくりというテーマで卒論を書いていて,彼が富士宮のB級グルメとして有名な「富士宮やきそば」を取り上げているからです.私も何も知らずにいるのもどうかなと思っていたので,たまたま身延線沿線に富士宮があることに気づき,とりあえず食べてみようと思い立ったのでした.
 富士宮の駅を降りて,10分ほど街をぐるっと見て歩き,「富士宮焼きそば」の旗が入り口にあった「トトロ」という店に入ってみました.中にはトトロのぬいぐるみが何匹かいました.(うーん,安直なネーミングだな...笑) で,肝心の焼きそばですが,割とふつうの焼きそばに思えました.これが名物「富士宮やきそば」なのか単なる「富士宮のやきそば」なのかは,私には判別不能でした.
 途中富士宮で降りてしまったので,ここから甲府までは鈍行です.富士川に沿って行く鈍行の旅はなかなか優雅でよかったです.久しぶりにのんびりとした気分になれました.身延線は距離はそれほど長くないのですが,そのわりに時間がかかります.それは,単線かつ富士川の流れに沿ってカーブが連続するからだと分かりました.また途中で,身延駅で長時間待たされることになり,身延まんじゅうを買いこみました.身延を出てしばらくすると,すでに暗くなってしまいました.最初,もっと富士山が見えるのかと思っていたら,富士山が見えたのは,結局富士宮あたりまでで,それ以降は山影に隠れたり暗くなったりで見えなくなってしまいました.仕方ないことですが,やや残念でした.
 甲府についたらちょうど夕食時で,途中下車して,駅の近くでほうとうを食べてきました.うまかったです.しかし分量が多かった.おかげで,予定していた「あずさ」に間に合わず,一本遅らせました.
 合宿もみっちりやったし,これまで行ったことのない場所に行けたので,充実した2日間でした.しかし,時間はかかりました.いつか,飯田線(豊橋~辰野)の直通6時間に挑戦する日がくるのかどうか分かりませんが,この分だとしばらくはないなと思いました.

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