2.3.とんでも科学の最近のブログ記事

 この春休みは忙しすぎて,ほとんど何も読めなかった.たぶん,私は研究者としては致命的に本を読むのが遅い.前任校の別の学部にいたある人は,バスの中でも本を読んでいる姿をよく見かけたが,車酔いしないのかと案ずる一方,本に対する執念を感じたものだが,私にはそんなものは皆無である...苦笑.本に書いてあるようなことは,自分で考えればよいとかテキトーなことを思ってごまかすからである.
 さて,表題のこの本だが,たまたま本屋で見かけて昨夏くらいに買って積ん読状態だったものを読んでみたという次第である.一言で言えば,日本人の「名前」がどのように変遷してきたのか,またその背景は何かといったことを書いたものである.
 うちの学部にも歴史の研究者は大勢いらっしゃるのだが,恥を忍ばず開き直って言えば,私には崩し字は読めないし,古文書を読んだこともない.うちの歴史系の学部生以下である.(「歴史系の専門家の先生方,こんなのが同僚でごめんなさい」としか言いようがない.)そんなわけで,歴史系の話となれば,単なるアマチュア好事家の根拠のない話も,専門家の話も,本質的に何が違うのかよくわからない.買う前に著者の経歴は見るけれども,果たしてそれでどれだけの判断ができるのかもよくわからない.この著者の経歴も,言葉は悪いが全くよくわからない.そんなわけで,読みながらも,「えー,ほんまかいな」とか,「まあ,鵜呑みにはせんとこ」とか思いながら読んだわけである.
 明治以前の名付け方がどうであったかということ,また生涯を通していろいろな名乗り方が比較的自由にされたこと,それが明治になって1つの姓と1つの名とすることになったこと,その反動で雅号などを称する人が増えたり減ったりしたことなどが大きな流れである.そのあたりのことは私自身が検証する術を持たないので,ただ信じるしかないわけだが,出典が不明とか,論拠が今ひとつよくわからないところもあり,半信半疑とならざるをえなかった.
 第6章は,明治以降の人気の名前の変遷である.このあたりになると,社会学的に読める部分もでてきて,疑いは根拠を持って大きくなる.たとえば,「明美」という名の盛衰について,昭和32年からベスト10入りしたが,「風俗産業の源氏名の定番となるにいたって,わが子の名としてはふさわしからずということになり」凋落したとあるが,源氏名効果がどのくらいあるのかについては,どんな形で検証しているのか全くわからない.確かに何かの流行歌の歌詞に読み込まれたものがあった記憶があるが,そういったことがどれだけの社会的効果をもたらすのかは,そもそも検証方法が確立されていないということもあると思うが,わからない.源氏名うんぬんは,単なる根拠のない推測に過ぎないように思われる.
 また,昭和50年代の名前は,タレント名やアニメの主人公の名前を「そのまま引き写しにした」ものが多く,平成にはいると「漢字のイメージを重視する傾向」になるという.そのあたりも名前1つ1つ検討したのかよくわからないという感じがする.さらに,近年の当て字的な名付け方については,「起源をたどれば劇画やアニメに行き着くであろう」というが,起源をどのようにたどればよいのかという方法論上の問題がクリアではなく(実際に何らかの具体的な方法でたどってみたとは書かれていない),単なる推測にすぎないのではないだろうか.これでは,俗説でしかない.
 社会学を専攻する学生は,卒論のテーマを考えるときに,映画やファッションなどを取り上げようとすることが多いが,彼らが構想初期の段階で決まって言うのは,「どのような映画が作られるか(人気があるか)は,その時代の雰囲気と関係があります」というようなことである.しかし,このような言明は,他の分野はいざ知らず,社会学では,ひどくたたかれることになる.どのような方法をもってすれば,そのようなことが言えるのかがわからないからである.資料を集めればよいということでは,許されないことも多い.その資料が特定の時代を「代表」していると言えることをどうやって担保するのかという問題がつきまとうからである.学生たちは,当初,「質的分析」を行えばよいというようなことを考えがちだが,重要なことは分析方法以前に資料の代表性である.
 この著者の本当の専攻が何なのかはよくわからないままだが,全体として感じることは,結局,代表性の問題であるように思われる.自分の言いたいことにそって場当たり的に例を提示するというやり方を,私はかたくなに拒否してしまうのである.やろうと思えば,私は著者の主張と全く逆のことを例を使って示すことができるかもしれない.例を挙げるだけでは,根拠としては全く不十分なのである.
 そんなわけで,私が評価しうる範囲において,この本の内容をそのまま受け入れることは,私にはできなかった.また,過度の一般化かもしれないという留保が必要かもしれないが,私の評価できない歴史的な部分についても,どこかしらに怪しい記述が多いのではないかと疑ってしまったのである.
 新書には当たり外れが大きいが,これが当たりか外れかはよくわからない.それは,ひとえに,論拠がきちんと示されていない記述が多すぎるからである.その意味では外れであるが,論拠がきちんと示されれば当たりに化ける可能性もある.まあしかし,現状では外れと言わざるをえないだろう.
社会学概論の授業で,システム論について教えていたとき,ポジティブ・フィードバックとネガティブ・フィードバックに言及しようと思った.しかし,ポジティブ・フィードバックの例についてよいものがすぐに思い浮かばず,ネットで検索しようと思って「ポジティブ・フィードバック」でググってみた.しかし,そこで目の当たりにしたのは,この言葉のあまりにもひどい使われ方,という以前に,この言葉の定義が相当に歪められて使われているという事実であった.

グロービス・マネジメント・スクールのウェブサイト(http://gms.globis.co.jp/dic/00930.php)(2010年1月27日)によると,

---ここから---
ポジティブ・フィードバック
カテゴリ:人的資源管理
positive feedback

①被評価者の意欲や能力が良い方向へ増幅されるフィードバック。
②被評価者にとって望ましい内容のフィードバック。


ポジティブ・フィードバックは、もともとの工学的な用法を踏まえると、①の意味で用いるほうが正確であるが、一般に②の定義で用いられることが多い。
例えば、「期待以上にがんばった」「給与を大幅に上げよう」などである。

②の意味でのポジティブ・フィードバックは、和やかな雰囲気で行われることが多く、また摩擦も生まれにくい。
一方で、往々にして意欲や能力のさらなる向上につながらない場合も多いため、伝え方の工夫が求められる。

■ 関連語
フィードバック、ネガティブ・フィードバック

---ここまで---

となっている.
これが元凶か,これを引用したページが非常にたくさんある.

私の見解としては,というか,システム論について知っているならば,①も②も本来的な使い方ではなく,相当な誤解を含んだ使われ方であることがわかると思う.
①が嘘なのは,別に「良い方向へ増幅される」だけでなく,悪い方向に増幅されることだってあるということである.②が嘘なのも①と同様で,わざわざ「①の意味で用いるほうが正確」などというほどのことでもない.どちらも本来的に嘘であるから.
本来的には,良いとか悪いとかいうことには関係のない概念である.
まあ,ビジネスとか心理学の業界の人たち(このように括るのは心苦しいので,そのうちの心ない人たちとでもすべきか)が,何かもっともらしい意味で使い始め,知らぬ間にそれらの業界では標準的な意味として定着してしまったのかもしれない.

ところで,おそるおそる同サイトで「ネガティブ・フィードバック」についても引いてみた(http://gms.globis.co.jp/dic/00851.php).

---ここから---
ネガティブ・フィードバック
カテゴリ:人的資源管理
negative feedback

①被評価者の意欲や能力が望ましくない方向へ増幅されるフィードバック。
②被評価者にとって望ましくない内容のフィードバック。


ネガティブ・フィードバックは、もともとの工学的な用法を踏まえると、①の意味で用いるほうが正確であるが、一般に②の定義で用いられることが多い。
例えば、「期待以下のパフォーマンスだった」「降格してもらう」などである。

②の意味でのネガティブ・フィードバックは、被評価者にとって聞きたくない内容であり、意欲をそぐ可能性も高いため、ポジティブ・フィードバックに 比べ、伝えるのが非常に難しい。人格攻撃しないのはもちろん、厳しい内容を伝えながらも期待を示す、常日頃密なコミュニケーションをとっておくなどの工夫 が求められる。

■ 関連語
フィードバック、ポジティブ・フィードバック

---ここまで---

ここまで来ると,完全に嘘である.ネガティブ・フィードバックによって「増幅」が起こるとな(爆).よくもまあぬけぬけと,こんなひどい嘘が書けたものである.こんな使い方をしているビジネスマンや○○心理学者には,反吐を吐きたいと思う.何が「もともとの工学的な用法を踏まえると」だ.どこをどう踏まえたらそんなことになるのだ.全く話にもならない.失笑を買うだけである.これでは,工学を含め自然科学の研究者と,ビジネスや心理学の心ない人たちとの対話はほとんど不可能ではあるまいか.
私は,授業においては,ウェブ上には上記のようなことを書いているサイトがいっぱいあるけれども,そのような使われ方は,本来的な意味ではないと言っておいた.最近の学生たちは,少なからずウェブ上の情報をそのまま鵜呑みにしてしまうので,注意喚起にはなったと思う.

結局,ウェブ上では,社会科学におけるポジティブ・フィードバックの好例を引くことを諦めてしまった.

これを試験の前日に書いている.試験が終わったら公開しようと思う.

 これまでさんざん避けてきたSPSSという統計ソフトを、ついに使わざるをえなくなった。前任校でも信大でもSPSSが導入されていたので、それを教えてはきたが、自分では普段はSPSSは使いたくないので使ってこなかった。主な理由は、GUI画面での操作感がひどいことと、私が思うにあまり標準的ではない独特の語句が使われていること、アウトプットの出し方がが気に入らないなどである。
 GUI画面の操作感について。たとえば分散分析。1元配置の分散分析のインターフェイスと、1変量の一般線型モデルのインターフェイスはかなり違う。それらのインターフェイスにいくつか出てくる「因子」の種類については、使うたびごとに「これっていったい何だったっけ」といつも思う。奇妙なネーミングに困惑するのである。しかも、「分析」メニューから、「1元配置分散分析」に行くには「平均の比較」から入ることになり、「1変量」の「一般線型モデル」に行くには「一般線型モデル」から入る。さらには、重回帰分析をしようと思ったら「回帰」から「線形」を選ばなければならない。非常に直感に反する。どれも「線型モデル」なのにな、と。何か使い勝手が悪いのである。また、アウトプットも表がいくつも出てくるのだが、SASみたいに、テキスト形式で出てきてくれると加工がしやすいのにと思う。

 いろいろな人から、確かにGUI画面はひどいけど、シンタックスを覚えるとよいですよと、言われてきた。シンタックスとは、要はコマンドである。自分でコマンドをタイプして実行するのである。実際、私の身近な人たちもシンタックスを使っているようである。そして、私もとうとうSPSSのシンタックスを使わざるをえない状況に追い込まれた。研究室をあげて行っている青木村調査において今年収集したデータの論理チェックを行うことになったのである。学生には、「このような形で論理チェックをするのですよ」と範例を示さなければならないので、どうしてもSPSS上で処理をしなければならなくなったのである。こうして、私の格闘が始まったのである。
 これまでも、断片的にはシンタックスについて教えてきた。こと、信大に来てからは学生のレベルが高いこともあって、学部生にシンタックスを書けというのは簡単なことである。多少の格闘過程を経て、多くの学生がある程度のシンタックスを書けるようになり、卒論の分析などでは、自ら進んでシンタックスを書くようになっている。
 しかし、自分自身は、これまでSPSSのシンタックスを避けてきた。断片的ながら、SPSSのシンタックスはひどいという思いがあったからである。その端的な例がrecode文である。これは、冗談かと笑ってしまうほど滑稽である。たとえば、

recode q1 (1=4) (2=3) (3=2) (4=1).
といった文である。これの意味は、q1という変数があって、1が「そう思う」、4が「そう思わない」の4段階スケールになっているとしよう。そのとき、直感的は、1が「そう思わない」、4が「そう思う」とした方がすっきりすることが多い。上の文は、1を4に、2を3に...置き換えなさい、という意味であり、一応、直感に合わせた形にすることができる。しかし、何だこの妙ちきりんなコードは。もう笑うしかない。「1=4」ってか。小学校1年生が見たら、「先生! 変なことを教えないでください」と言われそうである。ともかく、絶対に教えたくないし、絶対に使いたくない。
 少し細かいことを言えば、コードの末尾には「.(ピリオド)」を打つのだが、これが笑える。いや、ふつう、プログラミング言語なら、標準は「;(セミコロン)」くらいでしょう。本当に、文末に「。」をつけるような感じである。
 それから、条件文で使う「=」と変数への数値の割り当てで使う「=」は、両方とも「=」というのも、私としてはいかがなものかと思う。Basic言語レベルである。やっぱり、個人的には、条件文の方は「==(イコール2つ)」であってほしいと思う。まあ、このへんは、SASでも同じなのだけど。

 さて、私の論理チェック作業が始まった。やはり、ひどいと思うことがいろいろと出てきたが、中でも相当頭にきたのが、欠損値処理の仕方が面倒であるという点である。とりあえず、わざわざこのブログを見に来てくれた人のために、多少とも情報価値のあることを提供できるとすれば、次のことには注意である。
 たとえば、次のような状況を考える。入力時に、自由記述欄には、記入があれば1をなければ0を書けと指示したにもかかわらず、学生たちが、記入がない場合に何も入力しなかったため、欠損値になってしまったといった状況である。(ちなみに、私は、以前なら学生たちを叱り飛ばしていたかと思うが、今はこの程度ではめげなくなっている。人間、諦めが肝心である。)この欠損値部分に0を割り当て直すという作業は、たとえば次のようになる。ただし、ここでは、もとの変数の上に上書きせずに、別変数を作るようにしている。

/*on q24*/
compute q24_1 = 0.
if (q24 = 1) q24_1=q24.
しかし、当初私は、以下のように書いたのだが、反応してくれなかった。(私には、「compute」などという奇妙なコマンドが必要なのもどうかと思う。昔のBasic言語の「Let」と比べてもはるかにひどいと思う。なぜ数値を割り当てるくらいの操作がcomputeなのか。私としては、次のコードの方が直感的にわかりやすいと思う。)

/*on q24*/
compute q24_1 = q24.
if (q24 = $sysmis) q24_1=0.
しかし、これが何の反応もなかったのである。しかし、当然のことながら、「q24 = $sysmis」の$sysmisの代わりに、具体的な数値を入れると、きちんと思ったように反応してくれる。欠損値だろうが実数値だろうが、同じように書けてくれないと困る。
ともかく、欠損値が扱いにくい。
これまで、SASで

   select;
    when (living=.) livingg=.;
    when (living<10) livingg=0;
    when (10<=living<20) livingg=10;
 ......[中略]

    when (70<=living<80) livingg=70;
    otherwise;
   end;
といった式を書いてきたのだ(上式で「.」が欠損値を表す)が、こういった直感的な扱いができないのは非常に面倒である。
ともあれ、これまで、いくつかのプログラミング言語(Basic, C++)やMathematicaにふれてきたが、SPSSのシンタックスは、かなりひどい部類に入るという印象である。まともにやる気になれない代物である。
 別にSASマンセーでもないのだが(というか、初期導入費用が高すぎて導入できない)、SPSSの使い勝手はGUIもシンタックスも、私にとっては最悪の部類だと思う。本当に耐え難いと言うほかない。
 これまで、GUIでの操作よりもシンタックスを書く方が、意味もわからずに何かしらやったら何かしら出てきた的なことがないだけマシな教育法であると思っていたが、こんなシンタックスを覚えさせてよいのかという問題も感じ始めた。ともかく、私とSPSSの相性問題は、ますます深刻になっていると言わざるをえない。
 それ以前から本屋の書棚で見かけていたのですが、朝日新聞の書評に簡単な紹介がされたので、読んでみる気になりました。日本語の書名は、『トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題』となっていますが、英語の原題は、The Big Necessity: The Unmentionable World of Human Waste and Why It Mattersです。実際には、内容はこれら2つを足したような内容です。つまり、トイレの話だけではなく、下水や公衆衛生についても述べられています。トイレや糞尿処理という話題は、ふだん一般の人には避けられますし、公衆衛生の専門家たちも、水道を作って水を提供する話には関心を持っていますが、糞尿の処理についてはあまり認識がされていないようだというようなことが描かれています。
 読み通してみて、これまで知らなかったことがたくさん出てきてとても知的好奇心をくすぐられました。また、私は、あまり他人のことを尊敬しない人間だと思いますが、この著者(イギリスの女性ジャーナリスト)をはじめ、この本の各章に出てくる主人公の人たちを尊敬に値する人々であると率直に思いました。それは、自分なら、訓練すれば、あるいは、やろうと思えば、こういう仕事ができるか、と問うたときに、自分にはとてもできないと思ったからです。下水の処理法を考えたり、発展途上国でトイレや下水道の普及に取り組んだり、そのような職業に就く人たちは、他の人々から厭われたりしていますが、このような人たちの、まさに陰の努力があってこそ、世界はより住みやすく安全で健康に生きられる場所になっているのだということが理解できました。
 また、文体も魅力的です。英語の原著もよく書けているのでしょうし、訳もこなれていて、原著の魅力をよく伝えていると思いました。ともかく、各章に非常に具体的で印象的な話があり、内容が1つ1つ頭の中に残ります。

 「はじめに」の部分では、この本で取り上げるトイレなどに関わる問題がざっと述べられています。この本を買おうか読もうか迷っている人は、この部分だけでも立ち読みしてみる価値ありです。
 第1章は、日本のウォッシュレットの話です。2大メーカーがしのぎを削っている様子が描かれています。一方、ウォッシュレットは、欧米ではあまりはやっていないようでもあります。納得できる答えが用意されているわけではありませんが、なぜかを想像しながら読むのは面白いです。
 以下、下水道ツアーの話、インドのカーストの中で不可蝕民にさえ不可蝕とされる手作業の糞尿処理人の話、バイオガスや肥料としての利用を巡る話、トイレにおける儀礼的無関心など文化との関連の話、各国の糞尿の処理の現状など、目から鱗が落ちるほど、これまで知らなかったが、しかし非常に重要であると思われる話が次々に展開されていきます。

 私は、この本を読みながら、子どもの頃、たぶん、幼稚園か小学校低学年の頃、つまりは、1970年代の前半か半ば頃ですが、当時京都市の街外れの大通り沿いに住んでいたときのことを思い出しました。ある時期、下水道工事をかなり長期間にわたってやっていました。当時は、下水道という言葉だけを聞かされていて、それが何かもよくわかっていませんでしたが、そういえば、そのあと、水洗トイレになったような気もします。あの頃、下水道が敷設されたことによって、日本人の暮らしは、およそ今と変わらない感じになったのだと思います。その下水道ができるまでは、いわゆるぼっとん便所がありました。私自身には記憶がありませんが、両親の話では、昔、近くの農家の人が、肥を買いに来ていたそうです。この本でも、第7章あたりに、そのような農業について取り上げられていましたが、確かに下水道ができてからは、近くの田畑に肥だめを見なくなったような気がします。糞尿をどう処理するか、その技術や制度によって社会のあり方(その現れが、各国における伝染病による死亡率や寿命)が変わってくるというのは、非常に示唆に富んでいるように思われました。
 この本は、分類からすれば社会学の本ではありません。ジャーナリストが書いたノンフィクションということになるのでしょう。しかし、今まで陰に隠されていた事柄の重要性をきちんと説いているだけでなく、トイレや糞尿処理という観点から、社会や世界のあり方を考えてみようとする点で、視点の一貫性もあり、社会学の本としてみても、一定の水準にはあるものだと思いました。
 あえて若干のネガティブな側面をあげるとすれば、意外に読むのに時間がかかるという点でしょうか。読み応えがあるとポジティブに取ることもできるのですが、ページ数の割りには時間がかかりました。いろいろと考えさせられたからだと思います。読後にそれなりの疲労感がありました。しかし、これだけさまざまなことを考えさせられたのは、それだけ問題に重要性があり、また、本書がきわめて知的に刺激的であるからだと言えるでしょう。
池内了,2008,『疑似科学入門』,岩波新書.
 最近,本屋を物色していて衝動買いした本の1つであった.「またこの種の本か」と思ったが,目次を見ると,第4章が「科学が不得手とする問題」となっており,その中には,「複雑系」について書かれているようであった.「へー,どんなことが書かれているのかな.」それが決め手となって買うことにした.
 この著者は,もともとは物理屋さんのようである.だからというか,後述するが,話が心理学や社会科学の方面になると,記述自体にかなり怪しいところも出てきて,ちょっと苦しかった.
 しかし,おおむね,池内氏の言いたいことはわかる.最終的にもっていきたい方向としては,(「疑似科学」自体とは離れてしまうようにも感じられるが,)環境といった複雑系に関しては,よくわからない点も多いが,「予防措置原則」に従い対策をすれば,少なくとも負の結果にはならない,ということのようである.
 しかしながら,2つの大きな問題と,些末な問題がいくつか残されていると感じた.

 大きな問題の1つめは,「予防措置原則」についてである.複雑系の問題については,どのような結果になるか予想できないから,ネガティブな方向の予測を引き起こさないように対策すべきだという.そのこと自体はわからないでもないし,まあ,そんなものかなと思うのだが,そのあたりに物理学者の限界を感じる気もした.たとえば,環境問題を考えてもわかるが,それに対応するためのコストは膨大にかかる.産業界の少なくとも一部の業界が温暖化対策に対して批判的なことは見てのとおりである.これは1つの例だが,複雑系であるために結論がよくわからないという問題はたくさんある.全てについてネガティブな予測に基づいて対策をしていたら,全体として,どれだけたくさんのコストがかかってしまうのだろうか.それでは,社会的非効率を招く可能性が高い.われわれは,社会的効率を捨ててまで,社会的非効率を選ばねばならないのだろうか.そこには,社会的合意という,物理学とは別の次元の問題が関わっている.それから,社会的合意の一種だが,環境問題には,われわれが未来の世代に対してどれだけ責任を持たねばならないのかという,これまた物理学とは別の次元の問題が関わっている.たとえば,ある人が,社会的に非効率になることがある程度は仕方ないと思っているとしても,将来の世代に対してそれほど責任を持つ必要はないと考えているのであれば,せいぜい自分が死ぬまでは快適に過ごせさえすればよいと思うだろう.そんな人に対して,あまりにも面倒な省エネやあまりにも厄介なゴミ分別をお願いしても聞き入れてはもらえないだろう.
 2つめの大きな問題は,複雑系についてである.私は,社会科学で扱う現象の複雑さは,自然科学者が通常扱う複雑系の複雑さと比べて,はるかに複雑だと思っている.言ってみれば,社会科学の扱う複雑さは,「スーパー複雑系」(笑)である.池内氏も,どこかで人間が複雑だと言っていたと思うが,社会の複雑さは,氏が思う以上にもっと複雑である.だからこそ,上述のような社会的合意に関わる問題がすっぽりと抜け落ちてしまったりするのだろう.環境問題に一部の人々や産業界が否定的なのは,それが非科学的だからとか,複雑系で結果がわからないからではなく,社会的合意ができていないからといったところにもある.私は,池内氏が,一応,人間は複雑だと言ってみるものの,人間や社会の複雑さについて,直観として意外にわかっていないのではないかという感じがしたのである.

 些末な問題をいくつか.
 1つは,ホーソン効果についてだが,たぶん,若干の誤解があるのではないかと思う.p.66あたりの記述が,通常,心理学者や社会学者がホーソン実験として知っている内容と違うのである.
 もう1つは,菊池聡氏(実は,同僚)の『超常現象をなぜ信じるのか』をかなり長々と引用しているところである.そこで,菊池氏の言うままに血液型判断や血液型占いについてそれが非科学的だと批判している.しかし,心理学の学生が,いくら血液型判断は科学的ではないと言われても,影では血液型判断の話をしているのは見て知っているし,私自身もそれが非科学的はあると知っていながら,毎朝の「特ダネ!」の血液型占いを楽しみにしている(現在のあみだくじは,以前のトラックレースよりもいい感じである).別に非科学的であることに反対しているのではない.コンサマトリーな会話のために必要だからでもない.人間には簡単に物事を判断できないときや,決定できないときがあるものである.そんなときに,結局一か八かでどちらかに決めるわけだが,そのときにコイントスをするか,サイコロを振るか,血液型占いの言明に身を委ねるかである.全然科学的だと信じていない.また,占いのとおりにやったらうまくいくと思っているわけでもない.しかし,ルーマン風に言えば「複雑性の縮減」の一つのやり方として使っているだけのことである.逡巡して意思決定できない状態でいるわけにいかず,どちらかに意思決定しなければならないとき(どちらに転んでも良いことも悪いこともあるとき)に,非科学的であれ占いは利用できるのである.愛の告白をすれば,うまくいくか振られるかのどちらかであることは知っている.しかし,占いが「今日は告白するのによい日です」と言ってくれれば,リスクが小さくなるとは全く思わなくても,その日にしようと意思決定できるのである.
 また,宗教について批判しているのだが,「宗教」ではなく「疑似宗教」という言い方をしているのが気になる.しかし,そこで述べられている内容は,「疑似」などと言わなくても「宗教」そのものについてである.「怪しげな宗教」とそうではないちゃんとした「宗教」の本質的な違いがあると考えているのだろうか.どうも「幸運グッズ」が気に入らないらしいが,宗教を信じる人にとって,宗教が科学的であるかどうかなど関係ないのである.藁をもすがる境遇になったことがあるか,と池内氏に訊いてみたい.宗教は,強者には理解できまい.お守りを身につけて少しでも気が楽になればよいではないか.お参りをして少しでも神様仏様に向かって内心を吐露できればよいではないか.社会生活において,科学的であるかどうかだけが基準ではないのである.

 この本を読んでの全体的な感想だが,別に特に賢くなったということはなかった.今までの自分の考え方をもう一度見直したという程度である.複雑性に関わる部分も特に目新しい考え方ではなかったので,期待通りではなかった.科学者は,自分が対象としているモノについては標準的な科学的手続でもって問題を解決することが重要だが,一般の人々が,そうである必要はない(多くの場合コスト的にも能力的にも無理だ)し,実際に多くの場合そうではない.別に啓蒙が必要であるなどというつもりもない.脳死の問題など,科学的にいかに解明が進もうとも,そのことによって人々の信念が変わるとはあまり考えられない.科学だけが人間にとってのよりどころではないことを示唆する顕著な例であろう.それよりは,周りの人々や世論に脳死を人の死と認める人が増えれば,自分も何となくそんなものかなと思えてくるようになるといったことはありそうだ.ここでも科学的であるかどうかは,あまり関係ないと思われる.
 7月22日の皆既日食(多くの場所では部分日食でしたが...)見ましたか?
 松本は,あいにくの薄曇りで,空を見上げれば何とかそれらしい感じがわかるという程度でした.しかし,私は思いもがけず,曇り空でもかなりくっきりと見える方法があることがわかりました.むしろ,晴れていない方がよく見える方法です.それは...
 水たまりに映った太陽を見ることでした.本当に偶然に気づいたのですが,曇っているので水面に映った太陽は空を見上げるよりもはるかにまぶしくなく,全く特別な眼鏡も必要なく,肉眼でも十分にくっきりと見えました.
 雲がそれほど厚くない場合には,お試しあれ.って,何年後になるかは知りませんが.
 小学校くらいのときに,天文ファンだったこともあって,よく日食を見ていました.しかし,今回は,結構欠けていましたね.これだけ欠けたのは驚きでした.

 ところで,「報道ステーション」では,古舘伊知郎が,変なコメントをしていましたね.「天動説じゃなくて地動説」みたいな....しかし,日食の場合,黄道と白道がドンピシャで重なるかどうかという問題であって,天動説とか地動説とか関係ないんじゃないか(あるいは両方関係がある)と思いましたが....
Asahi.com 2009年7月2日10時13分
記事内容:

 テーマパークで遊べば、家族や恋人の「きずな」が深まる――。そんな脳科学調査の結果を、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)が1日発表した。 USJで遊ぶ前後に自分たちの集合写真を見せて脳の活動を調べたところ、遊んだ後は数値が最大10倍以上増え、より愛し合っていると感じることが確認され たという。

 調査の詳細は、USJと共同で研究を進めてきた杏林大医学部の古賀良彦教授(精神神経科)が1日、東京で開いた説明会で公表した。

 実験は先月、6組16人の家族や恋人、友人を対象に行った。USJで4時間半楽しんでもらい、その前後に、光トポグラフィーという装置を用いて、 脳が活発に活動すると数値が高くなるオキシヘモグロビンの濃度を測定。あわせて心理状態を客観的に評価するためのテストも行った。

 脳の測定では、対象者にスライドで他人の顔を見せていき、家族や恋人同士で一緒に撮影した写真が出てきた瞬間の状態を記録した。

 結果は、右脳から左脳まで測定した16カ所のすべてで遊んだ後の数値が高かった。特に右脳の一部では、遊んだ後の数値が遊ぶ前の14倍に上昇。右脳は主に感情をつかさどっており、写真を見た瞬間に強い感情の動きがあったことが確認できるという。

 感情がどう変化したかを自己評価してもらうテストでは、家族やパートナーと「愛し合っているか」「理解しあっているか」という質問への肯定的な回答の割合が、遊ぶ前と比べて大幅に高かった。遊んだ後はストレスが大きく減ったことも分かった。

 古賀教授は「複数の脳活動を測定した結果、明らかに差が出た。脳科学の見地からテーマパークでの体験によってきずなが深まることが裏付けられた」と話している。(佐藤亜季)


コメント:
 光トポグラフィーとかいう装置がどうしたこうしたということについては,何も知らないので,とりあえず「そうですか」としか言いようがないが,アクティブに活動すれば脳は活性化されるだろうということは,想像に難くない.
 それにしても,心理尺度がずさんという印象である.家族やパートナーと「愛し合っているか」「理解しあっているか」なんて,ふつうの心理学者なら,そんな訊き方はしないだろう.そんなことを遊ぶ前後で2回測ったら,実験参加者もバカじゃないから,「ああ,この研究者は,後の方で「より」愛し合ってるとか,理解し合ってると肯定的に答えてほしがっているんだわ」と気づくこと必定である.こんなずさんなやり方は,心理学者は取らないものである.
 しかし,まあ,常識的に考えても,楽しい経験をしたら,一緒にそれを体験した人に対してポジティブな感情が高くなることは当然だろうとは思う.しかし,私が問題にしたいのは,それが遊園地やテーマパーク,とりわけUSJでなければダメかというと別にそういうわけでもないだろうということである.私は,近くの公園で子どもと一緒に遊んでも,十分に楽しいし満足ですよ.問題は,USJやテーマパークが,他とは違い格別の効果を持っているかどうかが問題ではないだろうか.そしてまた,ふつうの公園と比べて有意に効果があったとしても,それが果たして数千円,家族なら1万円を超えるかもしれない出費に見合った返報があるかという点も重要であろう.家計管理者にとって1万円をUSJで消費するストレスは,結構高いと思うのだがどうだろうか.
 それから,この記事のような効果があるとしても,実際には効果は一時的なものだろう.それは,テーマパークに行ったことの感情の高まりが継続するわけではないからである(いつまでもハイテンションが続くのは逆に問題だろう).この記事では,事後測定がいつ行われたのかについては明確な記述がないが,仮に遊園地を出た時点ですぐに測定が行われたとすれば,タイトルにある「愛は深まる」というのは,一時的な昂揚感が反映されている可能性が高く,やや言い過ぎの感がある.もちろん,愛が経験の積み重ねで「少しずつ」深まっていくことはあるだろうが,テーマパーク1回で愛が「断然」深まるほど,愛というものがちっぽけではないことを私は逆に望みたい.

Asahi.com 2009年5月5日4時39分
記事内容:

 田植えはゴールデンウイークを避け、5月半ばに有給休暇で――。福井県が実家の農業を手伝う職員にこう呼びかけている。兼業農家率が9割と高く、例年、 大型連休に田植えが集中する。だが、それだと穂が出る時期が近年の猛暑と重なり、品質が落ちて福井米のブランド力に傷がつくからだ。

 西川一誠知事は3月、対象の職員400人を集め、「農業の未来が明るくなるよう地域、家庭で実行を」と訓示した。知事部局の8分の1を占める人数だ。

 コメは県の農業産出額の7割を占めるが、日本穀物検定協会による福井産コシヒカリの07年の食味評価は5段階評価で真ん中の「A′」。同年の1俵あたりの価格は1万4053円。近隣の新潟、富山、石川を下回る。

 黄金週間に田植えをすると穂が出るのは7月下旬ごろ。県によると、最近5年間のこの直後10日間ほどの成長期の平均気温は平年より1、2度高い。 この時期に高温が続くと、粒が割れる胴割米となったり、乳白色に濁り食味が落ちたりする被害が出やすい。出穂期が8月初旬ごろなら、成長期の平均気温は1 度ほど下がるという。

 福井県では来年度、全農地の6割で遅植えの実施を目指す。ある県職員(46)は「週休2日や育児休暇のように行政が主導し、企業に呼びかけて広げ るしかない」と話す。しかし、別の職員は「地域で助け合っている生産組合加盟の農家の場合、皆が休める5月の連休から、1人だけずらすのは難しいだろう」 と不安顔だ。

 福井県水田農業経営課は「県が田植え休暇を職員に奨励するのは全国でも珍しい。率先して5月半ば植えに取り組んでもらい、地域のモデルとなってほしい」と話している。(田中章博)

コメント:
 福井県知事も危ない橋を渡ろうとするものである.この記事のポイントは,「黄金週間に田植えをすると穂が出るのは7月下旬ごろ。県によると、最近5年間のこの直後10日間ほどの成長期の平均気温は平年より1、2度高い。 この時期に高温が続くと、粒が割れる胴割米となったり、乳白色に濁り食味が落ちたりする被害が出やすい。」というところにあるが,この傾向が今年も続くという保証はないというのが本当のところだろう.
 その「平年」だが,現在の値は,1971年から2000年までの30年分の平均値らしい.確かにやや古くなっているようには思うが,かといって最近5年の平均値から今年度の値を占うのも危うい.7月下旬という時期は,梅雨明けがずれ込む可能性のある時期でもあるだろうし,変動は結構あるのではないかと想像する.
 ところで,以前,先物取引の危なそうな業者がいくつか前の勤務先に乗り込んできて,話を聞かされたことがある.この話はそれと酷似しているように思われる.「このところ数年間の気象変動と収穫量,市場の需給関係から,今年も同じような傾向が続くと思われるので,必ず小麦を買うと儲かりますよ.」というあの論法とである.
 この手の話でモデル的にまずいのは,気候が変動するメカニズムが示されていない点である.根拠となっているのは,5年間の数値だけである.しかし,私は気象学に詳しいわけではないが,気象変動には原因となるいくつもの要因があるはずである.(しかしそれでも,私自身は,気象学がかなり「甘い」のではないかと感じている.たとえばエルニーニョ現象が発生したかどうかということを季節変動の根拠にするのはどうかなと思うのである.おそらく,エルニーニョ現象は,それ自体のメカニズムが説明されるべきであり,エルニーニョ現象をもとにその年の季節変動を予想(説明)するのは,本当はかなり無理があるのではないかという予感がしている.たぶんそれが,現在の気象学の限界なのだろうと思うのである.)ともあれ,重要なのは,気象のメカニズムが今年どのように動いていて,今年のその時期の気温をどのように予測するかである.過去5年間の数値は,その年その年のメカニズムがその時期に結果として表れただけのことであって,今年の温度を予想するのには,ちっとも役立たないはずである.5年間の平均を見て今年の気温を占うのは,ほとんど無意味であると思われる.
 それから,この知事の話は,かなり人間側の事情を無視していると言わざるをえない.兼業農家がほとんどを占めるから,ゴールデンウィークを利用して田植えをせざるをえないという事情もあるのだろう.その時期には人手もあるし,疲れれば休める.農家の人にとっては,つまらない予測に付き合うよりは,よほど現実的根拠がある行動である.
 福井県知事は,無意味な占いで人心を惑わすよりは,胴割米にならず,食味の落ちない品種の開発を支援するといった方向性を考えてみた方がよいのではないだろうか.

蛇足:あと,細かいところで気になるのは,福井にとって近隣県は新潟ではないだろう(富山は許容範囲かもしれないが).なぜ京都や岐阜と比較しないのかよくわからない.
http://www.shinmai.co.jp/news/20090407/a-6.htm
記事内容:
 日ごろあまり笑わない人ほどストレスを感じる傾向が強い-。県世論調査協会と埼玉県立大は6日、佐久市と青森県五所川原市で実施した「心の健康と生活」の報告書でこんな結果をまとめた。
 佐久市の場合、前年に比べて「あまり笑っていない」と答えた人は17・7%。「よく笑っている」のは19・7%だった。 「あまり笑っていない」人のうち、ここ一カ月間にストレスや悩みが「大いにある」と答えた割合は48・4%に上った。

コメント:
 初めて地元信濃毎日新聞(信毎)の記事を扱う.ウェブには上の内容しか載っていないが,新聞本体には,2~3倍程度の記事の分量がある.ウェブにはその抜粋版が上のとおり載っている.
 原文にせよ抜粋版にせよ,「いやー,ひどい分析だ」というのが率直な感想である.かなり典型的なミスを犯していると思われるからである.
 因果関係は,「笑わない→ストレスを感じる」なのか? 違うんじゃないの? 因果の向きはむしろ逆では? つまり,「ストレスを感じる→笑わない」ではないのか.
 全く情報がないのでわからないが,ここでいう埼玉県立大学の研究者って,ストレスの専門家か何かで,こういう研究をもとにして「ストレスを解消するためには笑えばよい」とかバカなことを言い出すんじゃないだろうかと想像する.そもそも「ストレスを解消するためには」なんて言う時点でストレスはすでにたまっているのでは.また,ストレスがたまっているのに無理して笑うというのも,外から見ていたらキモい.
 それ以上に,佐久市と青森県五所川原市との比較ってどういう意味があるんだろうか.なぜこれらを比較するの? これらの2つの地域を選んだ理由は? これらの地域にはどのような共通点があるの? また違っている点は何? そういう要因を統計的に統制しなくてもいいの? もう少し簡単な表現をするなら,「なぜ」2つの地域で笑う頻度やストレスの程度が違うのだろうか? それって何か地域的なさまざまな違いがもたらしている可能性があるんじゃないの? もしその可能性があるならば,そういった違いの1つ1つが地域による違いをもたらしている可能性について検討しなければならないのではないだろうか.場合によっては,地域の何らかの違いが,ストレスと笑うことの両方に効果を持っている可能性もあるのでは? 残念ながらそういう分析については何も書かれていない.埼玉県立大学の研究者はそういう分析をしているのかもしれない.それならば,問題は信毎記者が統計分析のセンスがないことになるだろう.どっちがよくないのか,どっちもよくないのかは,今のところ不明.
 ともあれ,記事の内容からしか判断できないが,おそらくこれは全く箸にも棒にもかからない無意味な調査だと思う.こういう調査を「フィールド汚し」と言うのだと思う.もうちょっとちゃんとした調査・分析をしてほしいと切に願う.これがうちの学生のレポートだったら,確実に不可だと思う.
Asahi.com 2009年4月3日22時43分

記事内容:

 自動料金収受システム(ETC)搭載車で数百キロの長距離を走行しながら、入ったインターチェンジ(IC)から出ると、料金がかからなかった事例が石川県内の高速道路であった。中日本高速道路金沢支社(金沢市)ではシステム改良を検討している。

 同支社によると、無料通行できた事例はETC車専用でゲートに係員が常駐しない「スマートIC」。北陸道の徳光スマートIC(同県白山市)から入り、東海北陸道の富山県小矢部市から名神高速道の愛知県一宮市などを通って、徳光スマートICから出ると料金が0円と表示されたとの情報が寄せられた。経路は 433.6キロで、本来の料金は9200円だった。

 「高速道路のみを周遊する使い方は想定外だった」と同支社は強調。現在のシステムでは青森など遠距離利用も可能とみられるため、システム改良を検討中だ。当面は利用者に走行経路を聞いて適正料金を請求するという。中日本高速道路全体では、利用実績から計9カ所のスマートICで無料利用があった可能性があり、調査している。

コメント:
 今回は久しぶりに謙虚な気持ちである.批判の矛先は,中日本高速道路でも,記事を書いた朝日の記者でもない.自分自身である.いや,決して申請していた科研費が通らなかったので自尊心が低くなっているとかいうのでもない.#多少自尊心は低まったかもしれないが,多くの人たちよりもなお高いだろう...苦笑.いや,そんなことはどうでもよい.ともかく,この記事,読んでいて心が痛んだのである.
 今をさかのぼること十年ちょっと.1997年頃であるが,私は独学でC++というプログラミング言語を学び始めた.当時バージョン1が出たばかりのBorland C++ Builderでである.これを親しくしていたJohn Boyd教授から薦められ,数百ページある「3週間で学ぶ」とかうたわれていたマニュアル本を買い,研究そっちのけでしばらくプログラミングを学んだのである.結局,未だにC++の何がよいのかとか言われても何もわからないが,ただBasicなんかよりも何となく格上の感じがするという程度である.それまでMathematicaをちょっとやっていたが,ループをグルグルまわしたりするのが遅すぎるため,やむなくC++に取り組んだのである.そして,何とかかんとか1つのプログラムを書き上げた.それが,PermNetというソフトウェアである.この私の最初のC++のソフトウェアだが,何と知らないうちに,かなり権威のある社会ネットワーク分析の本(Carrington, P. J., Scott, J., & Wasserman, S., 2005, Models and Methods in Social Network Analysis, Cambridge University Press)に載ってしまい,未だに海外からのダウンロードは多い.しかし,実はこれには未だに指摘されたことのない1つの問題点があるのである.しかも計算に関わるものである.それは変数の値がある値を越えると誤答を返してしまうのだ.しかし,その数がかなり大きいので,ほとんど場合実用上問題はないと思われるので,そのまま放置してしまっているのである.
 この記事を読んでハッとしたのは,想定外の使われ方をすることがソフトウェアやシステムには起こりうるということである.まさか途中で高速道路を降りずに一周してくるとかいうような使われ方は想定外だったのであろう.このことをどう考えるかであるが,ちゃんと対応して,つまりプログラムを修正して同じ間違いが起こらないようにするということもありうるが,もう1つは,「まあ,めったに起こらないことだから,そのときはそのときでしょうがない」と考えることにして,特に対応しないということもありうる.こういう場合,費用対効果で考えればよい.高速道路の場合,効果(といってもこの場合「損失」だが)は小さな確率ながら次第に増えていき,そのうちコスト(プログラムを修正するための費用)を上回るだろうから,修正するという判断になるだろう.
 しかしながら,PermNetはどうか.バージョン0.94で止まったまま十年以上経つ.これは,私が十数年前に「その部分」が気になって,それを修正したらバージョン1にしようと思いながら何もしていないでいるということなのである.すでに十数年前のC++ Builderが現行OS上で動くのかどうかも定かでない.やるとなればたぶん投資が必要で,今はそのようなモチベーションがない.しかもほとんど起こりえなさそうな問題に対応するためにである.これが個人がフリーで開発しているソフトの危うさである.近年,情報系の研究者の方とたくさん知り合ったが,そのうち誰かに学生さんでも紹介してもらって,安くで修正をしてもらった方がよいのかもしれない.ただまあ,ここでちょっとだけ気にはするものの,また十数年放っておくのだろうなという気がする.
 今日,新入生の人たちの顔を見た.しかし,他の先生のように,本を読めとかいうようなことは何も言わなかった.私としては数学を学べとか,プログラミングをやれとかいう気持ちもあるのだが,そんな言葉を発すれば,多くの文系の学生たちから敬遠されてしまう.私はそんなリスクは取らない.研究室に配属された学生の中でゲームとかアニメとかのオタクのやつがいたら,そうっとプログラミングを薦めてみようかとも考えているのだが,そういう系の人たちは,どうもお隣の分野に進みK先生のゼミに行くことが多いようである.まだしばらく数学やプログラミングを薦められる人が出てくるようには思えない.
 というわけで,今日の「とんでも君」は,私なのでした.プログラミングに関する一般的な問題に「バグ」があるが,その中には存在がわかっているバグと,わかっていないバグがある.私のソフトウェアの場合,バグの存在がわかっているのだから,私は上述のバグをフィックスした方がよい.わかっていてやらないのだから,かなりとんでもないことをしていると思う.しかし,高速道路の想定外の利用の仕方というのは,バグと言ってしまうのはやや酷な気もする.今回の高速道路のプログラミングの問題は存在がわかっていない場合に近いだろう.人間行動のあらゆる可能性を想像しながらプログラミングをするのは,ある意味人間科学のセンスがかなり必要であると思う.よいプログラマーとは,よい人間科学者なのかもしれない.その逆は全く正しくないと思うが.
...え,そんな結論かよって.論点をすり替えるなよって.ごめんなさい.でも,まだ当分逃げたい気分.

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