2008年という年は,私にとって激動の一年であった.これまでのウン十年の中で,これほどの激動を経験した年はなかった.これまでも,留学したり,結婚したりといった大きな変動がある年はあったが,それらは,ある程度予期され,計画されていた.したがって,それらは大きな変動ではあったが,準備ができていたので,激動というほどではなかった.また,これまで海外を含めさまざまなところでさまざまな経験を積んできていたので,適応力はそれなりにあり,ちょっとやそっとでは動じないという自負があった.しかし,今年は,予期せぬところ,与り知らぬところで生じたことに押し流されてしまい,その変動は激動と感じられた.変動が自分の掌中にあれば何ということはないことだったのかもしれないが,今年の変動はかなり身に応えた.
ともあれ,予期せぬことによって人生の再出発をすることになった.今でこそ現職に落ち着いているが,それはラッキーだったという他はない.他にもさまざまな人生がありえただろう.他の可能性は十分に実現する可能性があったし,むしろ現職に落ち着く可能性は相当に低かったように思う.(しかし,仮定の話をしても始まらないので,これ以上の話はしないでおく.)ともあれ,縁あって信州大学にやってきた.いろいろな方々のご助力・ご支援に感謝するとともに,ご迷惑・ご心配をおかけした方々に深くお詫び申し上げたい.
【荒川】
4月から9月までの間,とりわけ6月までの間は苦しんだ.ありあまる時間の中で悶々とした.「これまでの数年間はいったい何だったのか」と.
荒川の土手を散歩することが,日課のようになった.浮間公園からJR京浜東北線・東北線の橋を越え北本通りの新荒川大橋あたりまで,というようなコースであった.2月頃から散歩を始めたが,季節が移ろうのがよくわかった.春先に雑草が次第に伸び始める底力や,2週間ほどの短い間にサクラが爆発的に咲き散ってゆく姿は,それらがまさに生きているのだと感じられた.

(浮間公園のサクラ 4/1/08)
そのような生命力に囲まれながら,自分は反比例するかのように力を失っていくように思われた.しかし,荒川の開けた風景は,閉塞感で押しつぶされそうな自分の心を,少しでも開放させてくれるように思われた.

(荒川の河川敷)

(荒川に架かるJRの橋梁)
また,その閉塞感を少しでも和らげてくれたのは,PMGの音楽だった.それまでも雨の日に聴くと,いやな湿気が心地よく変わるように感じていた.その音楽自体はドライではない.むしろどちらかといえばウェットだと思うのだが,それは,どんな天候だろうがどんな心持ちだろうが,幸福な気分にさせてくれるのである.その音楽を聴きながら荒川を散歩すると,少なくともその間だけは心が洗われたのである.
八方ふさがりになると,人間は思考力を失うものである.全く先が見えない中で,いつも同じことばかりがしつこく頭の中をよぎるのである.それは,だいたい次のようなことだった.「ともかく,ここ数年,自分はあまりにも忙しかった.忙しすぎて,周りをよく見る余裕がなかった.週に2,3日は徹夜に近い状態で授業準備に追われた.新聞を読む時間もない,手紙の封を切る時間もないといった状態であった.ここ数年,職場の内外に気の置けない友人を新たに作ったことは一度もなかった.(ただその中でも,ゼミ生の中には予想以上に育ってくれた人がいたことだけが,私の支えだった.)私がここ数年を振り返って,全ての元凶と思うのはこの忙しさであった.これからどんな人生が待っているか分からないが,新しい人生が始まったら,ここ数年のような異常な忙しさと余裕のなさは脱却する必要がある」と.不安な状態ではあったが,荒川での散歩は,季節の移り変わりが感じられた幸せな体験であった.
【社会学者として】
ある日,思いがけない連絡が入り,その後,面接などを経て現職に奉職することが決まった.「捨てる神あれば拾う神あり.」 これまで,やや自分の専門の中心とはそれたところで仕事をしていたので,自分の職場内での存在が小さく感じられていたのだが,今度はまさに専門の中心部にどんぴしゃりのところだったので,期待感は大きかった.
前任校では,私の担当領域は,学部内でのメインストリームから外れていたし,学生もそのような認識を持っていて,私のゼミは人気薄だった.私はそれでも自分のゼミを選んでくれた学生を鍛えようとしてがんばった結果,私のゼミは厳しいという噂となり,ますます人気が下がるという負のスパイラルが生じてしまっていた.統計学などの学生にとってはイヤな科目(しかも必修科目)を担当していたことも人気薄に拍車をかけていたように思う.そのため,ゼミ選択の説明会などの時には,学生に媚を売るようなことをせざるをえないような感じになっていた.しかも,私の本来の専門である「社会学」の担当ではなかったこともあり,毎年どんどん減少するゼミ生の数に空しさと屈辱感を感じていた.「環境が変われば,きっとこんなことにはならないはずなのに.何とかして,社会学のポジションに就きたい」と思い続けてきた.
10月に授業が始まるに当たり,私は次のようなことを心がけた.自分が関心のあることを講義すること(自分が社会学者として社会学関係の科目を担当するのだから,自信を持って自分の考えを伝えればよい).概論科目のようにさらっと概要を流すだけではなく,批判点をあげたり,どうおもしろいかをきちんと説明すること(門外漢の者が外側から覗いたような感覚でしゃべらない),などである.授業の内容は結構難しかったように思うが,少なくとも私は楽しく授業ができるようになった.ひとまずこの半年間の様子や反応を見て改善すべきところは改善しようと思うが,さしあたっては,かなりストレートに自分のやり方で自分の考えをぶつけてみたのである.全体として,目指すのは,「本質的なこと」を理解してもらえる「深み」のある講義,であった.
この「本質的なこと」というところに,こだわりを持ってみようと思っている.たとえば,レポートや卒論を書かせる場合,前任校では,文献リストの書き方の規則とか(本来,とりあえず形式が統一されていれば,そのくらいでよいではないか),表に縦線を引いてはいけないとか(本来,見やすけりゃそれでよいではないか),学問の本質と全く関係のないことに神経をすり減らしすぎていたように思う.重要なのは中味ではなかったか.しかし前任校では,どことなく専門外のことをやっている感覚がぬぐい去れず,担当する領域の本質や面白さを自分自身がきちんと理解していないと思っていたため,当該領域にとって本質的でない副次的な事柄にばかりに目が向いていたように思う.また,ゼミ生を鍛え抜いて旧帝大レベルの大学院に進学させることに執着しすぎていたようにも思う(実際,この点での業績は自画自賛できるレベルになったが,今振り返れば,このことも本来は副次的な結果であるべきで,それ自体を目指すようなことはしなくてよかったのかもしれない).しかし,ここに来て,学生たちが自ら社会学的に考えようと努力し,何かを導ければそれでよいではないかと思うようになった.レポートや卒論の形式に多少問題があるくらい,内容の本質と関わりないではないかと.私としては,とにかく社会学的な考え方を教え,学生たちにも自分でそういう思考ができるようになってもらうことが第1ではないかと思うようになってきた.また,大学院に行きたいと希望する学生に対しても,基本的には本人の努力次第であり,こちらが責任を持って進学させるというほどに思いこまなくてもよいと思うようになってきた.
この方針は,「社会学」分野と学問領域的な関連性もある隣の「文化情報論」分野とも対照的でよいのではないだろうか.漏れ聞くところによると,お隣では学生をかなり「鍛える」らしい.たぶん,私が以前にやっていたような事細かな指導をしているのだと思う.しかし,今度は私はその手法はあえて取らないでおこうと考えている.こちらは,社会学的な思考法を身につけてもらうことが一番で,論文の書き方の詳細といったことは二の次と考えたい.そういえば,私もそのような教育を受けてきたように思う.日米でお世話になった先生方はみな,こちらからの問いかけにはきちんと応えてくださったが,手取り足取りではなく,基本的には私をエンカレッジするという姿勢であった.私自身がどれだけ伸びるかは,私がどれだけやるかどうかにかかっていたように思う.ただ,完全に放任ではなく,学生からの問いかけには,きちんと答えること(知らないことを言い逃れたり,関心をそらせたり,過度に「自分で調べてみなさい」ばかりを連発したり,をしないこと)は必要だろう.「求めよ,さらば与えられん」という精神である.学生側が積極的であればそれに応えるが,こちらからは無理に何かをさせることはしない.
直前の3つのパラグラフで書いた方針は,10月当初から思っていたことばかりではないが,信大の社会学研究室では,上のようなやり方がよいのではないかと次第に思うようになってきた.10月に授業が始まって2,3週間のうちに,実習や演習の科目において,学生が自分たちで仕事を分担したりしてまとまった仕事ができることがわかってきたことが,私のこれまでのやり方・考え方を大きく変えることになった.学生たちは,社会学研究室に所属していることに誇りを持っていて,自分で選んだ分野なのだからちゃんと勉強しようという意識が高い.こちらが細かい指示を出さなくても,自分たちで何とかしようとする.演習や実習科目が多いこと,学年を越えて同じ演習・実習を履修しているので,学年の上の者から下の者にいろいろなことが伝わっていることが,そういったよい環境を生み出しているようである.そのような環境を教員があえて操作する必要はなさそうである.もっと効率を求めれば,北大の社会心理学研究室(GCOEを取っているところで,以前世話になったことがある)のような組織を作ることも可能かもしれないが,そこまで無理する必要もないだろうと思う.
まだここ3ヶ月弱ほどの間に,研究らしい研究はできていない.ともかく環境を理解し慣れることが最優先課題だったから,それは致し方ないところである.信州に来るまでは,ともかく何か地域に関わる仕事がしたいと考えていた.着任してすぐに来年度の科研費の申請があったが,これまでの研究仲間とともに地域社会(必ずしも信州だけを対象にしたわけではないが)に関わる研究課題で申請した.来年度に採択されることを祈るばかりである.しかし,実はまだ信州で何をするかについては,自分の中で定まっていない.こちらに来てすぐに担当した大学院の授業は,医学部保健学科の人たちが受講している.医学部の人が受講するかもしれないということは研究室のボスである村山先生から聞いていたが,医学部の研究者の方とコラボレートできれば,中山間地医療を効率的に進めるためのネットワークづくりといったことができるかもしれないなというようなイメージを持っていた.そういった可能性については,これから春までの間に少し探りを入れてみたいと思っている.また,7月頃だったと思うが,信濃毎日新聞で,地震などの大規模災害が起こったときに,長野県には1千を超える孤立集落が生じる可能性があることが報じられていた.そういった意味でも,医学部とのコラボレーションは意義があるように思う.また,11月頃にある音楽関係の仕事の話がもたらされた.これから話を聞いてみることになっているが,実現する可能性が高い.信州は,サイトウ記念オーケストラをはじめ,音楽関係の活動は盛んである.何らかの形で音楽行政などにも関われればと思っている.また,現在,人文学部は小県(ちいさがた)郡青木村と協定を結んでいて,11月には学生たちの「社会調査実習」の一環として青木村を訪問した.今年はインタビュー調査を行ったが,来年度は調査票調査を行うことを計画している.このような形でこれまで知らなかった地域を知ることによって,自分自身も地域社会を見る目をさらに養いつつ,より着眼点の優れた研究,より地域社会に貢献できる研究を目指したい.来年度には,少しずついろいろなところに種をまいていきたいと考えている.
このほか,信州には単身赴任で来ているので,家族とは週末くらいしか会えなくなり,子育てや暮らし方についてもいろいろと考えることやなすことがある.しかしとにもかくにも,今年は一時この先どうなることかと思ったが,何とか新たな道を踏み出しつつある.うまく巡り会えた機会に感謝し,きちんとものにしていきたいと思う.