2009年2月アーカイブ

 2月8日(日),前日の「卒論発表会」の余韻の冷めやらぬ中,「まつもと市民芸術館」で開かれた,西本智実・ロイヤルチェンバーオーケストラを聴きに出かけた.午後4時開演という早めの設定だったので,午前中に洗濯など日常の仕事をさっさと終わらせるつもりだったが,洗濯が2杯になったりして,結構ぎりぎりになってしまった.いやなパターンである.理想としては,優雅にお茶でも飲んでから出かけるのがよいのだけど.(しかし,いずれにしてもホールまでちゃりんこで行くという,非常に日常的な作業がある.リムジンで乗りつける日がやってくるとはとても思えない.)
 席は4千円のC席.いや,ごめんなさい.正直なところとまどいがありました.今までCMで見たことはあるけれども,CDも聴いたことがなかったので,いきなりBとかA席とかいう気にはなれなかったのである.このあたりは,自分も大学教員で一応(音楽ではないが)その道のプロなんだけど,プロっていってもその内実はいろいろあることは知っているわけで,「まあ,まずは小手調べをしてから」という感じだったのである.

Nishimoto-RCO.jpg 演目は,ウェーバーの「オベロン序曲」,ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」,ブラームスの「交響曲第4番」だった.「オベロン」はコメントできるほど知らないので置いておく.他の2曲は,いわゆる誰でも知っている曲であり,オーケストラのメンバーとしてもあちこちで演奏している「いつもの曲」だろう.そういうのをあえて2曲も入れてくるのは,ある意味お手軽だが,力量が量られるという意味では怖さもあるのではなかろうか.
 コメントする前に,ともかく4階のC席だったので,天井に触れそうなほど近く,音響はいくらよいホールといっても,そこではかなり無理がある,熱が4階に上ってきて,空気はかなり揺らいでいる感じであり,そのあたりは差っ引いて書かねばならないだろう.
 ショパンは,やっぱりこの席ではかなりつらかった.音が変な反響をしていて,ピアノが音を外しているのではないかと思うことが何度もあった.おそらくはそうではないのだろうけど.特に速いパッセージで音が団子になるような傾向があったので,これ以上コメントするのは忍びないのでここまでとしたい.
 ブラームスは,小編成のオーケストラながら,なかなかよかったと思う.ともかく,指揮者の意図がよくわかる機能的な演奏だった.指揮者というのは振りが個性的で面白い.単に踊っているのではないかというような人から,きちんと1拍1拍丁寧に振る人まであるが,西本さんは後者のタイプであると思う.正直なところ,これまでブラームスという作曲家が今ひとつ好きではなかった――あまり歌えるようなメロディではないし,ところどころで印象的なメロディがあっても数小節くらいの断片みたいなもので,細切れで後が続いていかないようなものが多い.交響曲第1番4楽章の有名なメロディなんかがそうである――のだが,演奏を見て,ブラームスってオケの動きを見ながら聴くものではないかと思うくらい面白いことがわかった.たぶん,スコアを片手に聴くような曲なのである.ブラームスも,よもやレコードやCDといった聴き方(音だけが聴かれる聴き方)がされる時代が来るなどとは思ってもみなかっただろう.主題が返ってきたときに,初回と違って,今回は裏で低音がピチカートをやっているのだとかいう小技を「見て」,「ああ,なかなか面白いじゃないか」となるのだと思った.それがないと,ブラームスはやっぱりつらいと思う.ともあれ,西本さんの指揮は,そのあたりの曲のメカニズムというか構造というかを,きちんと対比的に出していて(しかもこれ見よがしではなく),曲の面白さが伝わってくるよい演奏だと感じられた.
 演奏会自体のことでいえば,「おまえら,「ブラボー,ブラボー」ってやかましい!」と思う.最近,吹奏楽の悪影響からか,オーディエンスが自己表現をしすぎるように思う.特に若い人たちに,もう少し控えてほしいと思う.

 さて,西本さんは,「女性指揮者」ということが一人歩きしている印象がある.事実,それだからこそ,私も今回は一歩引いてC席で,と思ったのである.しかし,彼女の指揮とそこから出てくる演奏から「女性」であることを感じたかというと,別にそういうことはなかった.男性指揮者であっても,いろいろな指揮をし,いろいろな音楽が聞こえてくる.同じ曲を演奏しても分散がある.私は,西本さんの演奏もその分散の範囲にとどまっているように思えた.男性指揮者が4番を演奏する音楽の分散からすれば,西本さんの演奏も決して有意に外れているとは思えなかった.その意味ではオーソドックスであった.私の感想では,彼女は女性ではあるが,ことさら「女性指揮者」と言い立てる必要もないだろう.もっとも,そのことによって話題性が出て,演奏会に人が来るとかいう宣伝効果があるということはあるかもしれない.しかし,演奏自体は奇をてらったりするようなことはなく,また,「確かに女性だからできる」といった印象を持たせるものではなかったと思う.その意味では安心した.興行主がどういう宣伝をしようともかまわないが,若い演奏家の人たちをみんなで盛り上げていくことには意味も必要性もあると思うので,こういう演奏会はもっとあってよい.西本さんの演奏会に次に行くときには,もう少しよい席で聴いてみようと率直に思える演奏会だった.
 それにしても,松本はよいところである.県庁所在地ではないのに,次々とオーケストラがやってくる.ちゃんと調べたわけではないが,結構オケ来訪率は高いのではないかと思う.今回の演奏会も満員であった.文化水準はなかなか高いようである.

 2月7日(土),丸一日かけて,社会学研究室の卒論発表会がありました.
 14件の発表のうち,テーマはどれ1つとっても同じものはなく,発表を聴く側としては,飽きはしなかったものの,あっちこっちと話が飛ぶので,それだけでも疲れました.

 赴任初年度ということもあり,卒論指導中は,暗中模索という感じでした.
 前任校での反省もあり,あまり厳しくしすぎないことを自らに言い聞かせていました.
 そういうわけで,当然のことながら,やる人はやる,やらない人はやらない,という感じになってしまい,出来は大きく分かれていました.
 しかし,それはそういうものだという考え方もある,と思います.

 なぜ,今までは厳しくしていたのか.そもそもの始まりは,前任校の初年度の卒論審査の結果の点数が学科会議でゼミごとに出されたことにありました.当時専任講師というペーペーだったこともあり,これはがんばらないと昇進に関わるのではないかなどと思ったことにあります(今となって考えれば,ほとんど思い過ごしだったのだと思いますが).2年目に,最初のゼミ生が卒論を書くことになっていたので,ともかく計画段階から実験・調査・分析・執筆まで,かなり厳しく指導しました.これが,「厳しいゼミ」の始まりだったのです.その年,ゼミの平均点は15ほどのゼミの中で上から2,3番目くらいでした.学科のメインストリームでなかったことから考えれば,これは上出来だったのかもしれません.実際,進学実績も自画自賛できるレベルでした.5年間のうちに,京大の修士課程,東北の博士課程,東大の博士課程に進学していきました.ともかく,それは厳しく指導してきたのです.さしずめ,「道場」といった感じだったように思います.
 でも,そういうやり方はきっぱりとやめることにしたのです.そういうやり方では,こちらも学生も持たないということがわかったからです.当時,ゼミのメーリングリストを作り,年間で多いときには1千通くらいのメールが飛び交うという,今となっては信じられない状態でした.私が午前4時に出した指示を,学生がその朝早くにこなしていないと,2限のゼミで叱られるなんて,本当にとんでもない要求をしていたものです.

 しかし,ともあれ,もうそんなことはやらない.学生ももう大人なんだし,卒論を書く,書かないも,自己管理のうちです.自分でやりたいテーマを選んだのだから,そのくらい自分で片付けようよ(もちろん,論文の形になるように指導はするわけだけど),というのが基本線です.
 実際,信大に来て思ったのは,「この子ら,放っておいても自分らで勉強するわ」ということです.いつも研究室にたまってわいわい騒いでいるようではあるが,たまには(?)卒論のことや授業のことで相談しあったりしている.たいへん結構な環境だと言えるでしょう.(そういえば,前任校では,ゼミ学生がたまる場所がなくて,個人研究室を学生のたまり場として提供していました.しかし,学生はそれでは来にくいわな.)たまに研究室に顔を見せて,そのときに行き詰まっていそうな子たちに声をかけてヒントを与えるようにすれば,あとは自分たちで悩みながら考えている.(以前は,こちらが細かく指示を出して,学生はそれに従うのが中心になってしまい,頼りにされすぎていたように思う.こちらががんばって指導をすればするほど,学生は教員に依存的になってしまうのでした.)学生たちが,自分たちで考えながら伸びていくというのは,素晴らしいことです.実際,自分が学生時代のことを振り返ってみると,結局自分で勉強したかなと思う(先生には,困ったときに相談しに行く程度)ので,やはり,このあたりが落ち着くところなのかもしれないなと思うのです.

 さて,卒論発表会は,のっけからやや荒れ気味に始まり,雲行きが怪しい感じでしたが,何とかその後は持ち直しました.しかし,初っぱながやや荒れたせいか,午前中いっぱいくらいは,やや張り詰めた感じで進んでいきました.
 ただ,人数が多すぎて,1人あたりの持ち時間が15分(発表)+15分(質疑)なので,発表者は詳細を省かざるをえず,質疑もつっこみ足りない感じがしました.力作に限って時間が足りなくなるようでした.来年度も同じくらいの数になりそうなので,もう少しやり方を考えないといけないなと思いました.
 ところで,これは秋に研究室(分野)への進級の説明会の時にも笑い話として言っていたことですが,某隣の分野とちがって,誰もスーツ姿はなく,みんな私服でした.たいへん好ましいことだと思いました.卒論は中味で勝負です.着飾ったところで点数は上がりません....しかし実際には,隣だけではなくこれまで勤めたことのあるところでは,いずれも心理系ではありましたが,基本はスーツでした.うちのゼミだけ「できるだけやめとけ」と言っていたこともありましたが,それでもスーツの人が多かったです.たぶん,多くのところでは卒論発表会はスーツが基本なのだと思います.しかし,社会学だからだと思いますが,何も言わなくてもスーツがいなくてホッとしました.でも,たぶん中味で勝負とは思っていなかったと思います.おそらく,その後に追いコンがあるのでスーツじゃ暴れられないということだったのだと思いますが,まあ何でもいいです.私としては,形式に囚われず,最大限に自己表現をしてもらえればうれしいです.その意味ではよかったかなと思います.
 そして,これは来年に向けてですが,発表会の後の全体講評でも言いましたが,6-3-3-4の教育課程の締めくくりとして,(大学院に行く人以外は)「今後の課題」は残さず,それで完結したものを書いてほしいと思います.これまでの思いの丈を全て表現し尽くしてください.それを来年度以降の人は目指してほしいと思います.
 ともあれ,4年生の人,ご苦労様でした.私は,前任のW氏から受け継いだ学生のみなさんに何とか卒論を書いてもらえたので,責任を全うした気がして肩の荷が下りました.

 さて,その後は,4年生の追いコンでした.いつものコンパのように楽しく過ごしました.しかし,どういうわけかこの日はあまり酔えず,そのせいか,何か自分が教員みたいで(いや,事実教員なのだが,今まであまりコンパの場で自分を客観視するような感じにならなかったので),どことなく疎外感を感じていました.「何かここ一年,いろいろとあったなぁ」なんて感慨深い感じもありました.ともかく,朝から夜遅くまでいろいろなことがあり,心地よい疲れを感じた一日でした.
 何とも遅ればせながら,レヴィ=ストロースの『神話と意味』を読んだ.辻なら当然すでに読んでいるだろうと思われている類の本かもしれない.しかし,レヴィ=ストロースの「神話」関係は敬遠していたので,その類のものとしては初めてだったのである.新宿-松本間のあずさの中で余裕で読み切れる分量であった.

 内容としては,構造主義入門といった感じである.基本的な構造主義の見方・考え方が展開されている.しかし,肝心の神話分析については,例がいくつか述べられている程度であり,構造主義の方法論がわかるわけではない.その例も,方法論がきちんと紹介されていないので,その解釈は本当にそれでよいのだろうか,他にもいろいろな解釈がありうるのではないか,その解釈が最も妥当であるという保証はどこにあるのか,といった疑問が噴出してきた.名人芸といわれる神話分析の方法論がわかるためには,もっと分厚い本を読まないといけないようだ.でも,みすずの本,高いんだよな.

 ところで,もし学生が神話についてこういった解釈の卒論を書いたとしたら,私はどう反応するだろうか.まずは,方法論の詳細を示せというだろう.仮に神話のバリアントがあり,神話を断片的に分解しその共通性を抽出したとしよう.しかし,そこから先は解釈の世界ではないか.その解釈の妥当性を保証できるものは何なのだろうか.たぶん,その部分がない卒論は不可にするか,ぎりぎり及第点で通すかというようなことになるだろう.解釈が名人芸では困るのだが,他の神話分析の文献に当たればちゃんと書いてあるかな.薄っぺらい本一冊では,やはりそこまでは望めなかったようだ.

 「信濃毎日新聞」2月5日の書籍の広告欄に『長野県の名字』という本の広告が出ている.
 わたし自身も,研究の必要上,苗字の件数には関わらざるをえない.それで目に付いたこの広告の紹介文を読んでいると,「あれ?」っと思ったのである.市町村によってそんなにバリエーションがあるんだ?
 広告曰く,
「長野県名字1位は小林,松本市1位は百瀬,安曇野市1位は丸山,岡谷市1位は小口,諏訪市1位は藤森,伊那市1位は伊藤,飯田市1位は木下」と続く.
 そこで手持ちの資料で確認してみた.わたしの資料によると,
「長野県名字1位は小林,松本市1位は百瀬,安曇野市1位は丸山,岡谷市1位は小口,諏訪市1位は藤森,伊那市1位は伊藤,飯田市1位は木下」
 確かにそのとおりである.わたしは苗字の件数を研究材料として使うだけで,苗字そのものを研究する気はないので1680円払っては買わないが,長野県って結構クローズドな社会なのね,と認識し直した.特に松本市の百瀬なんかは,それを感じさせる.全国で4400件ほどのうち2500件ほどが長野県で,うち1100件ほどが松本市である.完全に長野県松本市近辺の土着の苗字である.百瀬の残りは,ほとんど東京・神奈川である.おそらく,就職先を求めて出て行った人たちなのだろう.
 ちなみに,わたしの情報源は,「写録宝夢巣」というソフトウェアである.毎年発行で,全国の電話帳から情報をスキャンして取り込んでいるようである.都道府県別,市町村別で,各苗字の件数や苗字のランキングなどが出せる.操作感はやや微妙なところがあるが.
 苗字に戯れるのは,それなりに楽しい.上記ソフトで遊び出すと,何時間かはつぶせる.苗字の本がたくさん出ているのも頷ける.東京で百瀬さんという人に出会ったら,「松本はよいところですね」と声をかけてあげると,驚き喜ばれるかもしれない.
 卒論を読み終えた.
 これまで8年ほど,心理学の学生を相手に教育をしてきたが,この数ヶ月は,社会学者として再スタートを切った.
 今の4年生は,2年次と3年次の2年間は,前任者W氏の指導を受けてきている.私は,現4年生の卒論に関しては,調査票設計と分析の相談に乗ってきたものの,彼らの持っている方法論や統計学の基本的な考え方については,前任者のW氏のものを会得してきていると考えられる.

 提出された卒論を読んで驚いたのは,私にとっては,個人的態度を測定するための4段階尺度の項目にしか見えないものついて,たとえば男女差があるかどうかを検討する際に,χ2乗検定を行っていたことである.私なら何のためらいもなく男女別でt検定を行ったであろう.しかも1人のみならず誰もがそうしていたのである.いったいこれはどうしたことか.
 ここで私は,社会学と心理学の考え方の違いに気づいたのである.
 たとえば,社会学者が,所属階層意識について尋ねるとしよう.その選択肢は,1.上,2.中の上,3.中の下,4.下の上,5.下の下,だったとしよう.ここで社会学者は,なぜ人々は,自分のことを中の上と考えるのだろう,といった疑問を持ち,それを説明するためのモデルを考える.このとき,所属階層意識をカテゴリカル変数と考え,たとえば,男女別で所属階層意識が違うか確認しようと考えるのである.この場合,χ2乗検定が適当であると判断するのは当然であろう.
 一方,心理学者は,通常態度などを測定するスケールなどに慣れ親しんでいるので,4段階尺度を見ると,ほぼ自動的に,たとえば,男女別にスケールの平均値の違いを比較しようとするのである.この場合,人々が4段階の中でどこを選んだのかは(分布がある程度正規性を持っていれば)ほとんどどうでもよいことなのである.この場合,むしろt検定が行われる.
 おそらくこういった違いが,判断の相違を生み出したのだろう.
 しかし,もっと言えば,これは社会学と心理学で測定に関するフィロソフィーに違いがあることを示しているのだと思う.社会学では,あまり「○○尺度」といったものを使わない.単刀直入に事実関係をずばり尋ねるのがよしとされる傾向がある.つまり,社会学の場合,1つの質問によって「実体」を測定しようと考える傾向が強いのである.したがって,測定されたものは実体であるから,離散変量である個々の選択肢が選ばれること自体に関心が向くことになる.よって,各カテゴリに入る人数(割合)に男女差があるかといった分析をすることになるから,χ2乗検定をすればよいという発想になるのである.(上にあげた階層所属意識は「実体」とは言い難いが,実体を測定しようとするフィロソフィーが反映されたものと考えられるだろう.)
 一方,心理学では,実体としてはない心について測定しようとするために,ある心理学的構成概念について複数項目からなる「○○尺度」を作成する.つまり,心理学の場合,質問によって「構成概念(理念的構成物)」を測定しようと考えているのである.構成概念であるから,各項目のスケールのどこが選ばれたか(1か2か...)は,ほとんどどうでもよいことなのである.知りたいのは,尺度全体として平均値(ないし合計)が何点かということなのである.この平均値が全体としてある概念に関わる程度を表していることになる.よって,この程度を示す連続変量である得点に男女差があるかといった分析をすることになるから,t検定をすればよいという発想になるのである.
 本当は,測定しているのが実体か概念かによって,分析の仕方を違えるのがよいのだろう.しかし多くの場合,一方で有意差が出るときは,もう一方でも有意差が出るから,あまりどちらを使うかは気にされないのかもしれない.こうして,社会学ではχ2乗検定が行われる傾向が生じ,心理学ではt検定が行われる傾向が生じたのだろう.ちょっとしたところで,フィロソフィーの違いが現れてくるのである.

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