2009年3月アーカイブ

Asahi.com 2009年3月31日12時5分
記事内容:

 勉強の理解の程度に応じて子どもたちをグループ分けして教える「習熟度別少人数授業」。きめ細かな指導法として各地で導入されているが、勉強が進んでいない子の学力向上につながっていないケースが少なくないことが30日、文部科学省の調査結果でわかった。

 習熟度別授業は各都道府県の3~9割の学校で導入されているが、専門家は「単にクラスを分ければいいというものではない。個々の状態に応じたていねいな指導が必要だ」と指摘している。

 文科省は、小6、中3を対象に08年4月に実施した全国学力調査をもとに分析。算数・数学の成績が下から4分の1だった子どもから、「全授業の4分の3 以上で習熟度別少人数指導を受けた」グループと「習熟度別少人数指導を全く受けていない」グループを抽出し、問題をピックアップして正答率を比べた。

 それによると、習熟度別指導を受けた子の方が、受けていない子より正答率が1ポイント以上高い問題が小学校で14問中5問、中学校では20問中4問あった。ただ、差は最大で3ポイントにとどまり、受けていない子の方が逆に正答率が高い問題も小学校で3問あった。

 都道府県ごとにみると、小学校の算数で、習熟度別の実施校の方が正答率が1ポイント以上高い県が10ある一方で、非実施校の方が1ポイント以上高い県も5あり、それ以外はほとんど差がなかった。

 浅沼茂・東京学芸大教授は「効果が出ている学校を見ると、低学力層は10人くらいのグループにし、教材や教え方も変えている。子ども一人ひとりの 性格に合わせて声のかけ方まで工夫している」と指摘する。文科省の担当者も「効果が出るかどうかは、結局、先生がどういう方法で教えているかによるのでは ないか」と言う。(葉山梢)

コメント:
 この記事からは,習熟度別授業に差がないとは言い切れないという印象が強いです.記事の書き方としては,習熟度別授業に差がないと見出しをつけた方が人目を引くのでしょうけれども,この記事からのみでは,何とも判断がつきません.むしろ,私には習熟度別授業には効果があるというふうに読めるのですが....
 まず第1に,何ポイントの差がつくと,差が大きい(統計学的に言えば統計的に有意な差があるのか)がわかりません.これは全数調査だから有意差なんて関係ないとか言うのはなしです.(それならば,どこかで線引きしてこれ以上なら差が大きいとかこれ以下なら小さいとかいう基準とその根拠を示さなければならないはずです.)1ポイントの差は有意だと言えるのでしょうか,3ポイントなら? 平均値の情報だけでは判断しかねます.分散の情報が是非とも必要なところです.
 しかし,もっとも重要なことは,このような方法に意味があるのだろうか,ということです.下から4分の1の成績の人たちを選び,その中で,習熟度別授業を受けているかいないかで分けて平均値を比べるという分析方法に問題があるように思います.
 ここで紹介されているような方法の場合,全国学力調査の時点で習熟度別授業をすでに受けてきたことの効果が出ていると考えられます.したがって,解釈は2つありえます.1つは,習熟度別授業をする前には,習熟度別授業を受けた人たちと受けなかった人たちには学力の違いがなく,習熟度別授業を受けても受けなくても同程度の学力向上があったので,習熟度別授業には特段の効果がなかったという解釈です.おそらく,この記事ではこちらの解釈を採用しているのでしょう.もう1つは,習熟度別授業をする前には,習熟度別授業を受けた人たちの学力は受けなかった人たちより低かったが,習熟度別授業を受けたことによって効果が上がり,受けなかった人たちと同等の成績を得ることができたという解釈です.私はこちらの解釈の方が素直に思えるのですが,どうでしょうか?
 では,どのような研究をすればよかったのでしょうか.
 私なら(予算と時間があるなら),全国学力調査で下位4分の1の成績の人たちの中から,「その後」習熟度別授業を受けた人たちと受けなかった人たちの成績を比べるでしょう.
 しかし,習熟度別授業というのは,下位の成績の人たちを引っ張り上げるだけなのでしょうか.上位の人たちをより高く引きあげるという目的のものもあるのではないでしょうか? そうだとすると,この記事は,下位の人たちを引っ張り上げるタイプの習熟度別授業についてという限定がつくことになるでしょう.
 あと個人的な感想としては,こういう記事の落ちって,えてして「子ども一人ひとりの性格に合わせて」とか「先生がどういう方法で教えているかによる」とかいう話に落ち着きがちだが,このような無意味かもしれない分析とその解釈によって批判の矛先になる現場の先生って可哀想だなと思います.多くの先生たちは,目立たないところで少なからず努力をしていると感じます.教育学者や心理学者やマスコミは,「性格に合わせろ」とか「方法がまずい」とか頭ごなしに言うのではなしに,具体的に何か積極的な提言ができないものかしらと思います.私は,「性格に合わせろ」とか「方法がまずい」とかいう批判はありふれていて,ちっとも格好いいとは思いません.
 3月22日から23日にかけて,私がフィールドとしてきた新潟県旧栃尾市を訪れた.昨年10月に学生を数人連れて訪問して以来である.22日は,前日の卒業式の疲れが残っており,午後から出発したために,長岡駅に到達するだけで終わってしまった.
 23日,前日に急にではあったが,半蔵金区長さんがインタビューを受けてくれることになり,午前中に半蔵金地区センターを訪問した.2,3年前くらいは,かなりお体が悪いようで,インタビューを依頼してもなかなか受けていただけなかったりしたのだが,この日は,急な申し出にもかかわらず受けていただけた.お顔を拝見する限り,当時と比べると顔色もよくなられているようで,区長さんも体重が戻ってきたとおっしゃっていた.しかし,今度は数ヶ月前に大きなけがをされたようで,たいへんな状態は続いているようであった.
 インタビューの具体的な内容をここに記すのはやめるが,栃尾の中でも最も被害の大きかった半蔵金地区でも,各種の工事などはようやく一段落し(もちろん何もかもが完全に元に戻るということはないものの),ようやく落ち着きを取り戻したという感じが見受けられた.地区センターの2階の広間に案内してもらい,ちょうど前日に開かれたという「小規模水道」(簡易水道のようなもの)の竣工式の横断幕を見せてもらった.これまで各人が持っていた水道設備を一元化する工事だったらしく,これを機に当地の人々の結束が水道設備のようにますますまとまることを祈る次第である.
 お昼ご飯を食べるまもなく,中野俣小学校に向かった.途中,杜々の森の様子を見ておこうと寄り道したが,今年は例年になく雪が少なく,道を選べば靴が雪に埋もれてしまうこともなかった(確か一昨年の今頃は,膝上くらいまで埋もれる感じであった).ところで,あろうことか,ここでデジカメの電池切れ! 何てこった.意外に持たないのね....白い杜々の森は,この時期しか写せないのに....栃尾の中でも雪はほとんど見られず,森上や半蔵金,西中野俣といったところで多少の雪が残っているものの,他の地区では雪はほとんど消えていた.本当に暖冬であったことが感じられた.
 小学校に到着すると,その日は終業式で,翌日の卒業式に向けて準備が進められていた.木造校舎の一角にある体育館の一辺にステージが設けられているほか,来賓席・客席などが設けられ,素晴らしい式典になることを予感させるものであった.「明日,会議がなかったらなぁ」と思わずにいられなかった.以前も卒業式の前日に来て翌日は戻らないといけなくて残念な思いをしたが,今年もまたであった.ともあれ,学校に残って明日のための準備を手伝っていた数人の子どもたちのなじみの顔を見ることができ,相変わらず元気でたくましく,そして秋よりも一回り大きくなっているようでうれしかった.
 校長室に通していただき,校長先生と2,3時間くらいお話しした.初めに,今度中野俣地区の復旧・復興事業の1つとして出版される震災と地域の記録の書物に私が寄稿した文書の校正の確認.それから,学校教育のこと,地域社会のことなどをいろいろと伺った.いつものことながら,富澤校長先生のクリエイティビティと行動力には頭が下がる思いであった.全てのことをポジティブに捉えてよりよい方向に変えていこうとされるお姿はいつも魅力的である.私も自分が子どもの頃にこのような校長先生に巡り会えていたなら,学校はどれほど魅力的な場所であったかと思う.私のような時折のビジターだと特に魅力的な点ばかりが感じられるということもあるのだろうが,ともかくいつも楽しげな校長先生を見て,どのような組織であれ,ボスが魅力的で楽しげに仕事をしていると組織に活力が出るというのはきっと正しいと思う....自分もあまり学生の前ではぼやかずに楽しげにしておいた方がいいのかな,とちょっと反省.また,富澤校長先生については,別に書くことがあるかもしれないので,ひとまずこれまで.それから,昨秋発行された『社会学研究』に掲載された論文の抜き刷りもお渡ししてきた.このくらいが私の方からできることである.
 今回の訪問は,突然決まったものだったので,半蔵金と中野俣小学校だけであった.それでも十分に濃い中身だったが,中野俣地区の区長さんや住民の方,栗山沢の区長さん,仮設住宅の区長さんなどには会えなかった.またの機会としたいと思う.
 しかし,年に1,2度の訪問でも,もう4年になる.栃尾は,すでに私の中で大きな位置を占めるようになっている.研究の対象ではなく,自分の心のふるさとになりつつある.

 21日は,信州大学松本地区の卒業式が行われた.
 社会学研究室にとって,今年の卒業・修了者については特筆すべきことがある.それは,学部と大学院(修士課程)の両方で,当研究室の学生・院生が,優秀論文賞を受賞したことである.これまで,そのような例はなかったらしく,記念すべき年になったと言えるだろう.それもこれも,私が着任する以前に,M先生とW先生が,学生・院生に対してしっかりとした基礎教育をされていたことに尽きる.当研究室は,一見学生の主体性任せで放任とも見られているようではあるが,要所要所できちんとした教育がなされてきたことを示すものである.また,学生の側も授業中やレポートに対する1つ1つのコメントを真摯に受け止めて反省し,自分なりに考えながら学習を進めるというやり方をしているが、そのような姿勢が報われたのだと考えている.私自身は、この半年の間,前任のWさんが残していった学生たちが遅れを取り戻し,一定水準の卒論を書いてもらえるように努めた.ともかく責任を果たさねばという思いであった.ともあれ,M先生とW先生のこれまでの教育に頭が下がる思いである.「以前の方がずっとよかった」と言われないように,学生の主体性に任せながら私自身も努力を怠らないようにしていきたいものである.
 そして何より,前任のWさんが卒業式に合わせて来てくれたことが,卒業生にとってはうれしいことだっただろう.Wさん自身の学生に対する思いを強く感じ,また,学生たちも目を輝かせてWさんと話をしていた姿に感動を覚えた.Wさんがいかに学生たちに尊敬され慕われていたのかがよくわかった.これが国立大学の研究室のよさなのかなと感じた.学生と教員が日々相互作用をしながら学生たちが(そして教員も)育っていく姿は,単なる機能集団という括りを越えた関係にあるように思われる.これから先,学生とますますよい関係を築いていきたいと思う.
 卒業式は,大学近くの文化会館で行われ,その後大学に戻って文学部の新ラウンジで祝賀会が開かれた.学生の晴れやかな姿を見たのは2年ぶりである(昨年はいろいろあって卒業式に参加しなかった).学生にとってもハレの日であるが,教員にとっても学生たちを無事に送り出せて喜びを感じられる一日である.まだ着任後半年の新米教員ではあるが,これから先,年を重ねるごとに,ますます「自分が育てた学生」という思いが大きくなり,ますます大きな喜びが感じられるようになりたいと思った.
 夜には研究室の4年生が謝恩会を開いてくれた.前任校ではそのような形のものはなかったので,とても久しぶりな気がした.「恩」という感覚が学生に残っているのはたいへん好ましいことだと思う.しかし,実際には「恩」というのは,卒業したばかりの時点で強く感じられるようなものではないかもしれないという気もする.卒論の指導をしてもらったとか,単位をもらったとかいうことくらいが,せいぜい卒業時点での「恩」なのではないだろうか.私が感受性に乏しいというだけのことかもしれないが,卒業のときに私が感じていた恩はせいぜいその程度であったように思う.しかし,後々になって,恩というものがどのようなものだか次第にわかるようになってきた気がする.たとえば,学生を指導していて以前私が突き当たったような問題に学生が突き当たっているときに,あのとき師匠はどういう思いで私を指導してくれていたのかと思い返すときなどである.そういえば,卒業式本体においても最後に「蛍の光」の斉唱があった.ここしばらく儀式そのものに出ないことが多かったので,儀式で何かを歌った覚えがないのだが,この日はしっかり歌っていた.何よりも,自分自身が我が師の恩を感じられるようになったからではないだろうか.

Asahi.com 2009年3月17日8時7分

記事内容:

 日本人女性の平均体形をイメージしたヒト型ロボットを、つくば市の産業技術総合研究所が開発し、16日に公開した。「ほほ笑んで」「驚いて」「怒って」 と指示すると、表情や動作で感情を表現。ファッションモデルの歩行データをもとにプログラムされており、モデル歩きもできる。

 同所のヒューマノイド研究グループが98年から研究しているロボットの改良形で、「HRP―4C」。「人体寸法データベース」の19~29歳女性 の平均値を参考に身長は158センチ、体重は43キロに設計した。顔の大きさや体形、関節の位置などもほぼ平均値にした。顔は目を大きく、鼻を小さくする などアニメっぽい表情にしたという。開発費は約2億円。

 すでに23日に東京都内で開かれるファッションショーへの出演も決まっており、梶田秀司研究グループ長は「ショーなどエンターテインメント分野を中心に広めたい」と話す。

コメント:
 何で女性じゃなければならないのか,とか言うこともできるが,とりあえずそういうことについては他の人たちに任せておいて,「19~29歳女性 の平均値を参考に身長は158センチ、体重は43キロ」という認識は,事実に反するのでは,と指摘したい.それは「痩せすぎ」の部類ですよ.最後の「体重43キロ」の部分はあまりにも平均値とは違いすぎる.プラス10キロで53キロの方がリアリティに近いかな.また,何で目は大きく,鼻は小さくしないといけないのか.そこだけ平均から逸脱しようとするのはなぜ? 研究グループの人たち(ボス?)の好みなんじゃないでしょうね.あるいは,そのくらいにしないと,ファッションショーには出られないのでしょうか? それは,あまりにも金儲け主義ではないでしょうか.
 その背後で,平均が43キロなんて嘘に刺激された女性たちが,男性には想像がつかないほど痩せ願望を募らせてしまう(場合によっては,拒食症なんてことも引き起こしかねない)のは,罪作りだと思う.今年のうちの研究室の4年生が,卒論で女性が痩せることについての男女の見方の違いを取り上げた.女性の痩せ願望について,男性にはわからない切実な思いがあることに気づかされただけに,こういう研究には,ちょっと配慮が必要かなと感じるようになった次第である.いや本当は研究グループは,別の何らかの意図を持っているのではないかと思う.たとえば,ロボットの軽量化を目指しているとかだ.それはそれで意義はあると思う.(もっとも平均が43キロという認識はいただけないが.)しかし,それをおもしろおかしく(少なくとも一部の人にとっては,おもしろくもおかしくもないのだが)書き立てる朝日の科学担当記者の社会性のなさの方が問題ではないかという気もする.
 とりあえず,このような記事の書かれ方をすると,2億円に相当する価値があるかどうか...,社会的な価値のない研究にしか見えないのだが,本当のところはどうなのだろうか.もうちょっと説明してほしいな.

新聞などにたまに見かける「何だかなぁ」という感じのちょいネタ,「○○な社会記事」を始めます.
初回はこれです.

Asahi.com 2009年3月17日10時4分

記事内容:

 岩手県宮古市内の防災無線から20年以上流れてきたシューベルトの子守歌が、今月いっぱいで中止になる。午後9時の時報がわりに鳴る曲だが、「うるさい」と苦情が増えたためだ。

 「眠れー、眠れー」と歌うが、大音量だから、若い夫婦は「せっかく寝かしつけた子どもが起きて困る」、早朝の漁に備える漁師らは「寝たのに目が覚めてしまう」。とりわけ網戸にする夏場には苦情が殺到するという。

 「あの音は生活にとけ込んでいる」との擁護論もあったが、市はこれ以上続けるのを断念。担当課は「多くの市民のやすらかな眠りのためには、しかたありません」。

コメント:
 以前から気になっていたのが,防災無線である.私は,これまで国内では,京都市,宝塚市,札幌市,板橋区,東京都北区,松本市と住んできている.また,職場としても文京区,東京都港区でも勤めたきた.東京では防災無線で午後5時ないし6時に「夕焼け小焼け」が流れる.ちゃんとは覚えていないが,他所でも旅行先などで流れたところもある.常々うるさいと思ってきた.こんなもの,全く無用である.時には授業が中断され,「夕焼け小焼け」に聞き入るのである...私の授業よりもこっちの方がよほどちゃんと聞いている(苦笑).子どもに帰宅を促すことが目的だろうか? 子どもが外では遊ばなくなった,小学校低学年でも習い事や塾やで5時や6時に帰ることはなくなっている,等々から考えても,この時報には意味がないと思う.少なくとも,なくて不便はないし,あったらうるさいだけだと思う.
 防災無線の点検のために毎日鳴らすことが必要なのか? 鳴らさない自治体も多く,それでも特に問題になったケースはないのではないか...日常的にきちんと管理してさえいれば.(むしろよく問題になるのは,情報伝達が遅かったり判断が遅かったりして,鳴らすべき時に鳴らさなかったということがあった場合ではないか.)
 ともあれ,午後9時に大音量で子守歌を流されるのは全く迷惑千万だっただろう.子守歌で眠るべき幼子たちがそれで起きてしまうのでは,全くナンセンスである.子どもを寝かせ付ける時間まで,お役所に決めてもらう必要はない.せめて防災無線の点検のためには,夕方の「夕焼け小焼け」だけにとどめてほしいところである.
 ところで,防災無線について,いくつか疑問がある.
1.防災無線には音量コントロールはないのだろうか.大音量の一点張りなのだろうか.
2.なぜ,倍音のほとんどない時報みたいな音なのだろうか.
3.気象警報(光化学スモッグなど)が流れるときには,なぜ,あんなに棒読みなのだろうか.
 ともあれ,防災無線を鳴らすとか鳴らさないとかが記事になるというのは,何とも「平和」なことである.

 「行くべきか,行かなくてもよいものなのか.」私のような中途半端なクラシック音楽の聴き手にとって,クラシック・ファンでなくても知っているクラスの指揮者やオケだとミーハー気分も手伝ってせっせと大枚をはたいて聞きに行くのだけど,やや失礼ながら,はたしてどうしようかと迷う感じの組み合わせである.
Kitaenko-RSOW.jpg いやだいたい,「○○コンクール」みたいなのが多すぎて,素人的に何が権威があって何がそうでもないのかといったことが釈然としないところに問題があるのである.コンサートのチラシを見ると,たいがい「○○コンクール優勝」みたいな肩書きが載っており,いつもそういうのに踊らされ,そういう先入観をフィルターとして音楽が耳に入ってくるのである.そしてたぶん,そういう事前情報(下馬評?)をある程度前提として,コンサートの評価も書かれるのだと思う.
#しかし結果的に,どの指揮者もどのオーケストラも,だいたい同じような紹介内容になってしまい,違いはますますわからなくなるという事態に陥ってしまっている.まあしかし,これは,大学業界でいえば,よほど特徴的な大学でない限り,だいたい素人目にはあまり変わりがなく,「だったら少しでも偏差値の上の大学に」となるのと同じであろうから,しょうがないといえばしょうがないのである.
 その点でいうと,今回は,先日「N響アワー」でたまたまキタエンコが「悲愴」をやっていたのを聴いたので,「ああ,これなら聴きに行ってよいかな」と自発的に思ったのであった.その演奏は,派手さはないものだったが,逆に陰鬱さが内側にこもる感じでよかったと思う.「悲愴」と言えば,もののランキング本によると,カラヤンのウィーンフィルのものが評価が高いが,それとキタエンコのものとは,別世界というか違う曲というか,求めているものが違うように思われた.だから,そういう違うものを聴きに行くのだと思えばよい.ともあれ,今回はオケはN響とは違うものの一度演奏を聴いているので,「○○コンクール」云々という先入観なしに入っていけそうである.(以上,コンサートの前日に書く.)

 さて,当日.15分くらい前にホールに到着.しかし,聴衆の入りが非常に少ない.これはやばいなと.こういう状態の時には,人間や洋服で音が吸収されず,生音がきつくなったり,音がざらざらするものである.
 第1曲目の「オベロン序曲」でその予感は現実となった.弦はややざらついているが,そのうち大丈夫になるくらい.しかし,ホルンがきつい.ともかく,この短い序曲のうちに,耳と頭を調整しなければならない.あれが出すぎでこれが出ていない感じがするので,こういうふうに聴けばよいと.ともあれ,あんまり幸せではない音環境であった.
 続けて,ベートーベンの交響曲第5番.しかし....これは,どう評価すればよいのだろうか.キタエンコは,テレビで見た「悲愴」よろしく1つ1つ冷静すぎるかのように振ろうとする.一方,オーケストラの方からは,N響とは違い「オレたちはオレたちの音楽があるんだ」とばかりに,非常にロマンティックな音を奏でようとする.その間に緊張感がありすぎて,全体として何を表現したいのかよくわからなかった.この交響曲には,そもそも「運命」というタイトルは付いていない.それは日本で呼ばれる愛称であることはよく知られている.少なくとも,これはベートーベンの苦悩がそれほど感じられず「運命」ではない.しかし,「運命」ではないベートーベンの曲としても,オーケストラが,あまりにもロマンティックすぎないだろうか.この曲って,ベートーベンの曲って,そんなに甘美でなくても.しかも聴衆が少ないので金管が前に出てきすぎてしまい,近現代の曲のように聞こえてしまう.第4楽章になると,歓喜の曲なので指揮もオケもパーッとして一体感が出てきたが,終わって休憩時間になっても,あれは何だったんだという疑問が渦巻いていた.昔,父親が好んで聴いていたワルター/コロンビア響版や,これが私的にベストだと思うクライバー/ウィーンフィル版と比べると,あまりにあっけらかんとしていて驚いた.最近耳が悪いのでオケのピッチまでわからないが,もしかすると,A音が440後半か450くらいあるんだろうかとも思った.
 不安なままに休憩時間が終わった.私は,隣の席がずっと空いていたこともあって,1つ隣に座ってみた.その前の席に1人いたので,その人が金管の音を少しでも吸収してくれないかと思ったのである.これは,大成功であった.1つ隣に移動するだけで,これほど違うものだとは思わなかった.
 ブラームスの交響曲第1番が始まった.すると,のっけからものすごくよかったのである.あっという間に引き込まれてしまった.まさにつぼにはまるという感じであった.1ヶ月前の西本さんは,機能美で魅せたが,こちらは,音楽の説得力とオケの響きが抜群であった.中編成程度のオーケストラなので,音色は変幻自在だし,特に弦の音,特にバイオリンの高音の伸びが素晴らしい.こういう音って,オーディオでは聞けないよなという感じの極上の音である.ふだんは重厚すぎて聴くに堪えないほどしんどくなってしまうブラームス(これは,個人的バイアスだが,この重厚感がブラームスを受け付けない最大の原因であるといってよい)であるが,重くなりすぎず優美で朗々としており,本当にごちそうさまという感じであった.第3楽章くらいからは,第4楽章のあのテーマが出てきたら涙が出るかもなとか先走りしてしまうほどであった.実際,件のテーマはよかった.長い前振りからハ長調のテーマに入ったときに,本当にこれがベートーベンの第9番に続く曲だと評されたのがよくわかるほど,感動的であった.ところで,このテーマだが,Allegro non troppo, ma con brioとなっていることにパンフレットを見て気づいた.いやー,確かにこの指示は絶妙である.おそらく放っておくと,オケのメンバーたちは盛り上がってしまい,どんどんアチェレランドしてしまってもおかしくない.特にチェロとコントラバスは3拍目がないので,4拍目を早めに入ってしまうと(たぶん入りたくなるところである),どんどん早くなっていきそうである.そこを指揮者がいかに抑えてcon brioにするかが聴かせどころなのである.キタエンコの顔は見えなかったが,たぶん満面の笑みで振っていたのではないだろうか.

 演奏会が終わった.アンコールはなかった.始まる時間が若干遅くなったこと,客の入りが悪かったことなどが理由かなと思う.アンコールなしのコンサートって,私には初めてで驚いてしまった.ともあれ,ベートーベンはともかくとして,ブラームスは満喫した.ロビーでしばらく聞き耳を立てていると,空席だらけの演奏会だが意志を持って来る人たちなので,いろいろと評している人たちもいた.しかし,「運命」しか知らないという人も結構いるらしく,ブラームスは「知らない曲」なので「長かったね」などという声もあった.この人たち,「運命」には満足したのかしら.何だかなぁと苦笑してしまった.まあ,何事も好きずきなので,何とも言いませんが.

 しかし,この聴衆の入りの悪さは何とかしないといけないなと思った.先月の西本智実さんの時には,確かに週末ということもあったが,ほぼ満席であった.しかし,今日は2,3割程度ではなかったか.特にS席などはガラガラであった.後ろに行くほど人がいるというのは,悲しすぎた.人のことは言える立場ではないのだが.
 松本の聴衆は,実はミーハーなのか? あるいは「運命」はポピュラーすぎてあえて来ないのか,逆に「運命」は少しでも集客に貢献していたのか,平日という日取りが悪すぎたのか.ともあれ,このままだと,松本にはオケが来なくなってしまいますよ,みなさーん! 音楽の街を支えていきましょう.

 さて,最後に恥を忍んでチラシについて一言.「馥郁」って読める? 意味わかる? チラシの一番てっぺんにこの熟語から始まるうたい文句が入っている.私は全く初めてみる漢字で,当然意味もわからなかった.推測さえできなかった.こういういかにも碩学風のフレーズって受けるんでしょうか? 私はこの種の教養については全くない(山手線のドアに貼ってある漢字検定2級の問題でも全問正解はできないことが多い)ので,たぶん学者としては相当アレな方なのだけど,庶民的に考えても,これは難しすぎないか? こういうのがクラシックから人を遠ざける原因になっている気がする.「純粋芸術が理解できる教養高き人だけ来てください」なのか? それにしては,「運命」しか知らないという人もいたのだけど.たぶん,この業界もちゃんとマーケティングをやるべきだと思う.

 数理社会学会が京都市の北の外れのある大学で行われた.これをよい機会と考え,空き時間を使って,左京区の修学院小学校区を歩いてみた.修学院小学校は,私が小学校の4年生(昭和50年度から53年度)まで学んだ学校である.(もしかすると現在の学校区と当時の学校区は異なっているかもしれないが,重要なことは場の記憶があることである.)校区には,その名のとおり修学院離宮があり,曼殊院・詩仙堂・一乗寺下り松といった全国的にもよく知られた史跡の他,赤山禅院・鷺森神社といったところもある.小学校4年生までしかいなかったので,それらの史跡の価値などわかるはずもなく,後になって初めて,観光客がわざわざ行くところだったのだと出自を誇らしく思ったりしたものである.学会がよい機会と考えて,叡電修学院駅前の比較的新しめのホテルに泊まることにした.
 7日(月)の朝,朝食を食べて散歩を始めた.まだ店が開く時間より早かったので,まだ店は続いているのか畳んでしまったのかはわからなかったが,山端の修学院マートはまだあったし,プラザ修学院(当時は「修学院プラザ」とか「プラザ」と呼ぶことの方が多かったと思う)に至っては,30年前にあった精肉店・鮮魚店・青果店・サンリオショップなどがまだ残っており,全国的にシャッター商店街が増える中,よく頑張っているなあと感激した.おもちゃ屋さんはなくなっているようだったけれども....その近くにあった友達Bちゃんの家は取り払われてしまっていて,彼はいったいどこへ行ってしまったのだろうかと彼の身の上を案じた.プラザの裏側には集合住宅があり,そこにK君が住んでいた(彼は,その後校区内の葉山に引っ越した).K君とはその路地でよく遊んだ.爆竹などで,ここには書けないような遊びもした.たぶん,そういう遊びは誰もがしていたのだが,今は子どもたちがそういう遊びをすることは,あまりないのかもしれない.
 修学院小学校への道中にも旧友E君の家があった.家というよりもお寺で,まあ当たり前だけど,お寺は以前のとおりそこにあった.音羽川沿いの道は,ちょうど小学校に通っていた頃に歩道がきちんと整備されるような工事がされたような記憶があるが,少なくとも1,2年生の頃は,歩道は舗装されておらず,雨が降るとぬかるみが出たりして,それはそれで楽しかった気がする.また,音羽川自体も,今ではコンクリートで河床と両側の壁面がコンクリートで塗り固められているが,当時は今よりも川幅の小さな川だった.雨が降ると水かさが増し,かなりの濁流が流れていた.確かに危険だということで工事がされたのだろうが,何の色気もないコンクリートの川になってしまい,今となってはとても残念に思う.

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(音羽川沿い.遠方に比叡山を望む)

 小学校の門に着くと,門は施錠はされていないものの閉ざされており,グランドでは,スポーツ少年団の野球チームの子どもたちが,遠投のキャッチボールをしているところだった.遊具類の場所などは,ほとんど当時と変わっておらず,とても懐かしかった.しかし,グランドの一番奥にあった講堂は,取り壊され,そこに体育館が建っていた.門のところに野球の少年たちを見守る指導者の人(50代半ばだろうか)がいて,少し話をした.その人も小学校の卒業生だったそうで,昔は一番奥に木造校舎があったとか,石炭ストーブで石炭当番があったとかいう話をした.その人も「懐かしいなあ」と言っていた.

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(修学院小学校のグランドで野球の練習をする子どもたち)

 正門に回ると,そちらは開いており,そこから入って,昔の講堂の跡地に建っている体育館のあたりをぷらっとした.体育館には校歌のレリーフがかかっていた.歌詞は3番まであるようだが,私がいた頃には,朝礼の時など1番の歌詞しか歌わなかったと思う.1番は今でも歌える.当時,歌詞の意味は難しすぎて全くわからなかったが,子どもが知らぬ間に覚えてしまうように覚えたのだろう.歌詞の中には,「修学院」とか「母校」とかというありきたりな言葉は1つも入っていない.明治時代に開校した頃のその近辺の風景が詠み込まれているのである.1番の歌詞は,小学校の東にそびえ,毎年遠足とは別に登山が行われていた比叡山―6年生は頂上まで登るが,学年が低くなるほど登る高さも低くなった.おやつは配布されるドロップの缶1つだったように記憶している―を讃える内容である.小学校のウェブサイトで歌詞の確認と歌を聴くことができる.
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/syugakuin-s/

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(校歌のレリーフ)

 その歌詞にもある比叡山だが,学校のある場所は,比叡山がもっとも美しく見える場所の1つだろう.これよりも山側に行くと,ややずんぐりとした形になってしまう.学校開設に当たり,明治の人々は,どこから比叡山が美しく見えるかということも考慮に入れたのではあるまいか.
 写真を撮ったりしていると,そこの教員と思わしき人に声をかけられた.怪しいものではないことを示すために,自分が昭和50年度入学で4年生までいたことなど,名刺を渡して話をした.その先生は教頭先生とのことであった.しばらく昔話や現在の話をしたりして過ごした.ますます懐かしい気持ちになった.教頭先生からは,今いろいろな講師の人を招いて話をしてもらったりしているというような話を伺い,自分も何かできれば声をかけてくださいと伝えておいた.
 学校を後にして,東の方をめがけて歩いた.途中あちこちと迂回しながら,赤山禅院に向かった.途中から小学校の裏門から延びる道に入った.このあたりは本当に30年ぶり(そのあたりには史跡が多いので,そういう場所に案内に来ることもあったが,表の道しか通ることはなかった)で,学校から課外授業に出かけたときによく通っていた道であった.そういえば,そのときに蛇が出てきて大騒ぎしたなとか,記憶が蘇ってきた.そのあたりにも多くの友達が住んでいたはずで,班でお楽しみ会とかの準備をするためにその家を訪問することもあったのだが,その場所がどこかはわからなかった.それでも,新しい家もあるものの,かなり当時からの家屋も残っており,ところどころで,そういえばこんな家があったなとか(別に特別な建物ではなくても),当時の記憶が30年ぶりに喚起されることが何度かあった.しかし,1つ違うのは距離感覚であった.子どもの頃は遠いなと思ったところが意外にそうでもなかったり,だいたい思ったとおりだったりしていたことである.人間の記憶は面白いものだなと思った.
 赤山禅院の入り口まで来て,そういえば,その参道の脇に流れている小川のところでよく遊んだなと思い出した.その近くにN君が住んでいて,ここでよく遊んだのだった.N君は今でもいるのだろうかと思い,少し探してみると,彼の名前の表札が出ていた.お父さんではなく彼の.彼はまだここにいるんだなと思った.人が中にいる感じもしたが,いきなりではぶしつけなので,特に何もせずその場を後にした.
 赤山禅院は,30年ぶりということはない.その後もしばらくは初詣に来たりしていたこともあった.たぶん,10年ぶりくらいではないだろうか.赤山禅院にはある思い出がある.小学校から写生大会に来たことがあった.たぶん3年か4年かの秋の頃だが,私は参道の脇のところから,参道を挟んで向こう側の木々を描いた.その場所もだいたい覚えていた.私の絵は下手だったが,その近くでクラスメイトの女の子が描いた絵が素晴らしかったことを思い出した.秋だというのに空がピンク色で,まるで桜の花が咲き誇っているかのような絵だったのである.もちろん,秋の絵なので桜は描かれてはいなかったのだけど.また,言うまでもないが,木々の枝振りの描き方もうまかった.そして,今となればわかるのだが,点描画の手法を使っていた.ともあれ,大人が描いても,あの空はあのようには描かないだろうなと,今でも思う.ともかくあの絵は抜群にうまかった.30年経っても記憶されているクラスメイトの絵.たぶん,私にとっては,美術館で見た巨匠の絵よりもインパクトを持っている絵である.

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(絵を描いた場所からみた木々)

 また,赤山の写生の時の思い出としては,参道から境内に上るところの階段で遊んだことである.よい子がまねをするとよくないので,具体的には書かないが,悪知恵だけはよく働くガキだったので,先生に怒られてお灸を据えられたのが今となってはよい思い出である.

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(件の階段)

 赤山には,お姿みくじがあって,それもここのお楽しみの1つである.一通りお参りした後に,久しぶりにそのおみくじを引いた....でも,このおみくじ,一頃よりも値段が高くなってないかな? 後になって気がついた.まあ,楽しめたし,それはそれでよいのだけど.

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(お姿みくじ...後ろの大きい人形ではなく,手前の小さいのの底におみくじが入っている)

 赤山の参道を戻って,もう少しだけ先に行ってみた.すると,そこで昔と同じ光景を見たのである.そこは,以前と町並みがあまり変わっていないというだけでなく,そこに青いトラックが止まっていたことまで同じだったのである.子どもの頃も,そこに青いトラックが止まっているのを見た覚えがあるのである.そこの住人がその手の仕事をしているからなのだろうが,30年も前の光景が青いトラック1台を手がかりに蘇ってくるのは驚きであった.
 その後は,修学院離宮のあたりから,鷺森神社の入り口,詩仙堂の下,下り松のあたりまで歩いた.その途中で,クラスメイトだったM君のところは,まだ酒屋さんをやっているようであった.しかし,1,2年の頃仲良しだったOさんの家はどこだったか,全く忘れてしまっていた.次に,当時特に仲がよかった友だち2人の家がどうなっているか行ってみた.Y君の家は建て増しをしたのか少し様子が違っていたが,まだそこにいるようであり,K君の家はそのままだった.K君の家は当時は新築だったと思うが,庭を造り,いい感じに年季が入ってきているようだった.このまま帰ってしまうのも惜しいと思い,Y君とK君のところでメモ書きをポストに残してきた.また連絡が取れればと思う.また,当時行っていた散髪屋さんや,そろばん塾あたりにも立ち寄った.散髪屋さんは,結構繁昌している様子だった.そろばん塾だったところは,建物は外装を少しやり直した感じはあったが,平屋建てのままであった.あのときの先生とアシスタントのお姉さんは,今頃どうしているのだろうか.お姉さんの「用意,始め」のかけ声が独特だったのが思い出された.

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(そろばん塾だったところ)

 その近くに新しく「こせちゃ」という名前のパン屋さんができていることを発見.入ってみると,ご主人と奥さんが夫婦でやっているのかなと思われる素朴な感じのお店だった.お昼ご飯に3点ほど買ってみた.後で食べてみると,素材がよいことがわかる味だった.素材を活かすためにあまりこった味付けにはあえてしていない感じが好印象のパンだった.また,独特のふんわり感が印象的であった.値段設定も割安感があり,満足度は高かった.最近,こういうパンには,ありつけていないと思った.翌日もホテルから松ヶ崎駅に向かう途中にあったcote a coteというパン屋さんに行ったが,ここのパンも訴えるものがあっておいしかった.やっぱり,食べ物は関西の方がおいしいかなという印象を持った.そういえば,東京だと,チェーン店のパン屋しか行かなかった気がする.個人店は外れるんじゃないかという不安感が大きかったからかもしれない.
こせちゃ:http://www16.ocn.ne.jp/~cosecha/
cote a cote:http://r.tabelog.com/kyoto/A2603/A260303/26006206/
 その後,西浦畑公園を訪れた.ここも子どもの頃よく遊んだ公園である.この公園は上と下の2つに分かれていて,下の方は比較的広くて四角いグランドがあったため,常に2,3方向くらいから野球をしていた.野球好きの子どもたちが放課後になると集まってきて,よくやっていたのである.だいたい学年の近い子どもたちがまとまっていた気がする.私は野球に混じることはあまりなかったが,たまにはやったりしていた.今は,野球とサッカーは禁止という立て看板が立っていた.昔はサッカーは全く流行っていなかったので,もっぱら野球を禁止していたような記憶がある.たまに公園管理の人が来ると,みんなそそくさと退散したという覚えがある.公園の上の方は遊具と藤棚があった.今回公園に入ってみて感激したのは,当時の木々が結構そのまま残っていたことである.「ああ,この木あったわ」と幹や枝の感じを見るとわかるものである.30年間木々の形を記憶しているなんて思ってもみなかった.

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(西浦畑公園...手前の木などに覚えがある)

 そしていよいよ以前住んでいた清水町にやってきた.すでに以前住んでいた家はなく,ビルが建っていたが,入居者募集状態であった.テナントが入っていない状態なので,その場から周りを眺めてみた.向かいの写真とプラモデルのAさんのお店は店をたたんでしまっているようだったが,(イニシャルは同じだが異なる)A木工所はまだやっているようだった.通りの様子は30年前とあまり変わっていなかった.しかし,残念だったのは,京小町八ッ橋が開いていないことだった.看板は上がっているのでやっているのだろうが,外からガラス越しに中を少し覗いてみたが,機械が動いている様子がなかった.日曜日だったからかもしれない.昔は,ここのMちゃんと同い年で,よく倉庫や工場で遊んだ.まだ味付けしていない粉をこねただけの団子みたいなものをほおばったこと,生八ッ橋を焼いて硬い八ッ橋を造る円型の機械が面白くてよく見ていたことなどは,古きよき思い出である.そういえば,Mちゃんとやった遊びで印象に残っているのは,お墓ごっこである.近所の人の名前をかまぼこ板などに書いて墓石のようにして,庭に立てて遊ぶのである.あれはいったい何だったのだろうか.ああいう遊びはものがわかってくるとしなくなると思うが,子どもにとっては,お墓というものは,かなり面白い対象なのだと思う.

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(以前,家があったところ.今はビルが建っている.)

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(家の前からの風景...あまり大きな変化はない)

 裏通りに入ると,そこは少し様変わりしていた.Aさんのうどん屋(製麺)さん―ここには4つか5つ年上のお姉さんがいて,小学校の1年生のときには,近くの子どもたちを集めて学校に連れて行ってくれた.また,たまにそこにうどんを何玉か買いに行くと,独特の匂いがあって好きだった.―はなくなって貸しアパートになっており,Iさんの学生向けの下宿はなくなって空き地になっていた.近くのひいらぎ神社は,最近整備されたのだろうか,たいへんきれいになっていた.そこでも以前からあった木々がそのまま残っていることに気づいた.その木々は子どもの頃,Mちゃんと登ってよく遊んだので,あのへんに脚をかけて登ったかなと,昔の自分があたかもそこで木に登っている様子が思い描けるほど鮮明に思い出された.
 そこから修学院の駅に向かった.途中,牛乳店をやっていたK君の家を訪れたが,そこには普通の家が建っているだけで,以前とは様子が違っていた.もう牛乳屋はやめてしまったのだろうか.ちょっと調べてみたが,
http://9199.jp/phone_page/03870023/?guid=ON&cx=135.79271701&cy=35.04693493&vx=135.78851700999996&vy=35.051134929999996&zoom=16
によると,もう本業の牛乳屋はしておらず,別のものに乗り換えたのかもしれない.以前は,この場所とは離れた同じ校区内に,牛舎があり,そこで何頭も牛が飼われていて,たまに学校帰りに立ち寄って乳搾りの様子を見たりしていたことを思い出す.あの工場,今はどうなっているのだろうか.ちなみに,当時は牛乳の宅配をやっており,そのときの牛乳箱の写真がウェブにもアップされている.私も散歩している間に,牛乳箱を見かけた.当時はどこの家にもあった気がするが,今はレアもの扱いされている.
http://k-y-o-t-o.seesaa.net/article/41813011.html
http://k-y-o-t-o.seesaa.net/article/23515803.html
http://k-y-o-t-o.seesaa.net/article/11583125.html
http://blog.goo.ne.jp/radionova/e/d94c1c23fa93f06ca46ccd4fd009bfeb
K君,どうしているのかな.そのまま順調であれば,おそらく跡を継いで重役級なのだと思うけど.
 その近くには,ピアノを習っていたY先生のおうちがあったが,家は建て替えられ,表札はYではなくなっていた.ピアノのレッスンをやめられたという話は,ずいぶん以前に聞いた覚えがあったが,そこにあったものがなくなってしまっていて,寂しさを感じた.また,そのY先生のところに習いに来ていた近くのMさんのところでは,その日ちょうど葬儀が行われようとしているところだった.時代の流れというものを感じた数分間だった.
 その後,ひいらぎ公園を訪れた.この周りには2軒の駄菓子屋と1軒のパン屋があったのだけど,いずれもやっていないようだった.Yさんところは,駄菓子屋と文房具屋を兼ねた店舗だったが,完全に建て替えられていてかなり立派な家が建っていた.子どもの頃は,毎日50円とか100円とかをもらい,YさんところかNさんところのどちらの駄菓子屋で何を買おうかと日々子どもながらに思い悩んだ.

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(ひいらぎ公園...太田川の西側)

大きな思い出が2つある.1つは,ある日,妹がどうしても前日Yさんところで見つけたギターの形をした爪切りがほしいと言い出した.その日はどこかに出かける日だったので,開店まで待って買うことができなかった.妹を何度も諭したが言うことを聞かず,ついに私が妹に立ち会ってYさんところまで行ったのである.妹は閉まっているシャッターを朝っぱらからどんどん叩き,開けてもらった.妹は無事に?爪切りを買うことができた.立ち会う兄としては,非常に面目ない気持ちだった.いったいあのときの自分の役割って何だったのだろうか....愛想を振りまいて許してもらうことだったのだろうか.何か今でもそういうところは変わっていないのかもしれない.あの爪切り,結構後々まであった気がするが,今はどうなっているのだろう.もう1つの思い出は,アイスクリームの「王将」である.3色アイスの王将は,当時30円で当たり付き.50円の小遣いの中でも買ってお釣りが来るので,子どもの頃よく食べた.その王将だが,あるとき当たりが出た.だいたい当たりが出るか気にしているので,その場で食べる.当たりが出たのですぐに当たり棒を持っていってもう1つもらう.ふつうはそれで終わりなのだが,何とまた当たりが出たのである.喜々としてもう一度当たり棒を持っていき,もう1つもらった.そうしたら,またもう1度当たりが出たのである.さすがにこれにはびっくりした.しかし,もう王将はあのアイスクリームの箱(あれ,何という名称が正しいのだろうか)の中になかったのではないか.「おばちゃん,また当たったんやけど.もう王将あらへんと思うわ.」と言うと,おばちゃんは,「しゃーないな」と言いながら,別のアイスをくれたと思う.それで当たりの連続はとぎれてしまったが,3連続の当たりというのは後にも先にも記憶がない.しかし,子供心には,もっと王将があったら,もっと連続して当たったかもしれないという無念な気持ちでいっぱいだった.当たることしか考えなくなるなんて,めでたいものである.
 公園のところのパン屋さんには,あまり行かなかったが,たまにパンを切らしたからといって買いに行かされることがあった.ところで,今回の旅のどこかで,「進々堂」の文字を見つけた.そういえば,この頃進々堂って見ないなと思って調べてみると,これも京都のパン屋さんらしい.昔はどこのパン屋やスーパーでも進々堂のパンを売っていた.そのパン屋でも進々堂のパンを買っていたかもしれないなと思った.

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(ひいらぎ公園...太田川の東側)

 ひいらぎ公園は,太田川を挟んで公園になっていて,東側のところにひいらぎ会館がある.昔はここで習字を習っていた.もちろん,習字の半紙や墨汁はYさんところで買うのである.M先生はもう相当に歳を召された方だった.同じクラスのN君もそこに習いに来ていた.彼は私より常に1級上で,私は何とかして追い抜きたいというのが励みだった.彼は,あまりお手本にこだわらず,豪快に書くタイプで,几帳面な字を書く私とは好対照であった.彼のかすれた「はらい」は,ゆっくり書く私には出せない彼の味であった.

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(習字を習っていた「ひいらぎ会館」)

 太田川は,かれこれ2メートルほどの幅しかない川で,今はコンクリートに塗り固められていたが,昔はそうではなかった.八ッ橋屋のMちゃんとよく川に入ってカエルやザリガニをとったりしたものだった.橋の下をくぐると,クモの巣が張っているのが不気味でとても怖かった.また,川にはヒルがいて,脚をよくくわれた.たまにコイが泳いできたり,カメをとったりしたこともあり,とても面白かった.しかし,コンクリートに塗り固められた川では遊ぶ気にはならなかっただろうなと思う.

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(太田川沿いの道)

 最後は,S君の家のところに行ってみた.S君は,3,4年生で同じクラスだったが,頭もよく運動もできるという子で,テストでは,たいがい私よりも数点上で,ドッジボールをしても,当てるのもよけるのもとてもうまかった.女の子にも人気者で,私は子供心に嫉妬を感じていた.もちろん,友情を感じた上での話ではあるが.彼の家の場所はすぐにわかったが,家は比較的最近建て替えたようであった.以前の家がどんなだったかはよく覚えていないのだが,表札を見ると,彼の名前があった.2世帯住宅のようである.今,彼は何をしているのだろうか.
 ところで,修学院保育所の場所が変わっていて驚いた.以前は,母がそこで勤めていたが,母からそんな話を聞いたことがなかったからである.今は,修学院プラザと小学校の間の筋を少し東に入ったあたりに移っていた.
 修学院の駅から,叡電に乗った.叡電は,昔のようなクリーム色と緑色のツートンカラーではなく,1両1両カラフルなデザインになっているようである.

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(叡電修学院駅と駅に到着する電車)

 本当は,校区はもっと広かったのだが,時間の関係で南は下り松あたりまでしか行けなかった.残りの部分はまたいずれ訪れてみたい.今回,校区にいくつもある史跡は,赤山禅院を除いて行かなかった.4年生までしかそこにいなかった私にとって,史跡の歴史的重要性を感じるのはまだ早かった.そこは,私にとっては昔よく遊んだ界隈というような意味が圧倒的に強い.1つ1つの道に,1つ1つの店に,そこで誰と何をしたのかという記憶が詰まっている.その後もどんどんいろいろな記憶が再現されてきている.たとえば,赤山の近くのM君の酒屋の近くに,やはり駄菓子を売る店が残っていたが,そこでは,N君たちと,当時発売されてブームとなったチュッパチャップスや,はじけるキャンディ(残念ながら,どういう名前だったのか思い出せない)をそこで買って食べたことを思い出した.場所の記憶とはこういうものなのかもしれない.場所は単なる場所ではなく,そこで誰と何をしたのかという記憶とともにある.
 私は,自分の故郷が,少しずつは変わりながらも,まだ30年前とあまり変わらずに残っていることをたいへん幸せに思う.東京のような大都会であったならば,記憶を喚起してくれるような手がかりはなくなってしまっていたかもしれない.これは,京都だからなのかもしれないし,京都でも市の外れの方だからなのかもしれない.ともあれ,自分のルーツを感じられる場所が存在することは,本当にありがたいことである.
 最後に,やや恥ずかしながら告白すると,散歩をしながら,私の頭の中では,「冬ソナ」の「My Memory」が執拗に回っていた.カン・ジュンサンが自分の記憶を取り戻すために,高校時代の舞台をあちこち回るシーンがあるが,まさにそんな感じであった.記憶があっての自分である.

 いやいや,出るものですね.卒論でこんなの書く学生がいたら,確実に不可ですね.

Asahi.com 2009年3月5日8時4分
記事内容:

 ヤマハ発動機と東北大学が4日、「オートバイの運転は中年の脳を活性化する」と発表した。平均年齢46歳のライダー11人に運転中、脳の血流を調べる装置をつけて調べた、同社提供。

 10年以上運転していない元ライダーは、「昔取った杵柄(きねづか)」に頼るように直感で運転しがちだったが、現役ライダーは論理的な状況判断をしていたという。

 実験を監修したのは「脳トレ」で知られる川島隆太教授。元ライダーの川島教授は「再びオートバイに乗るという野望実現の口実ができた」。

コメント:
 私は,中学1年生の時にスキーをやったっきり,大学3年生までやらなかった.中1までは,毎年ないし2年に1回くらいは,スキーをやっていて,まあボーゲンを脱出した程度は滑っていた.大学3年で数年ぶりにスキーを履いたときには,さすがに怖かったかな.慣れるのにしばらくかかりましたね.

 さて,この記事だけど,結局,脳の血流はどうなったの? 増えたの減ったの? 増えたら何なの? 減ったら何なの? 脳の血流と論理的判断との因果関係はどうなの?
 10年以上運転していないライダーは,ある程度乗れるまで練習させたのかな,それとも,練習なしにいきなり測定だったのかな.
 10年以上運転していないライダーで,ふだんは自動車に乗っている人は,自動車に乗っているときには論理的な状況判断はできるの?
 脳にとって直感的な判断っていうのは,ダメなことなの? 直観的判断と脳の血流との関係はどうなの?

 こんなのいくらでも勝手に解釈できそうなんだけど,どうなんでしょうね.
 川島先生,奥さんにバイク禁止令を出されちゃったので,何とか復帰を狙っているのでしょうか.しかし,先生,朝日の科学記者の記事の書き方に問題があるのかもしれませんけど,ちょっと無理がありすぎるんじゃないでしょうかね.
 私も松本に来て自動車を買ってもらえないのだけど,何か妙ちきりんな実験をやって納得させようかな.でも,私の妻,私以上によくできるので,これじゃ無理だろうな.
 とりあえず,私は,「脳トレ」は買わないことにしました.このコメントとの因果関係は,先生と同様,不明.

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