2009年7月アーカイブ

 7月22日の皆既日食(多くの場所では部分日食でしたが...)見ましたか?
 松本は,あいにくの薄曇りで,空を見上げれば何とかそれらしい感じがわかるという程度でした.しかし,私は思いもがけず,曇り空でもかなりくっきりと見える方法があることがわかりました.むしろ,晴れていない方がよく見える方法です.それは...
 水たまりに映った太陽を見ることでした.本当に偶然に気づいたのですが,曇っているので水面に映った太陽は空を見上げるよりもはるかにまぶしくなく,全く特別な眼鏡も必要なく,肉眼でも十分にくっきりと見えました.
 雲がそれほど厚くない場合には,お試しあれ.って,何年後になるかは知りませんが.
 小学校くらいのときに,天文ファンだったこともあって,よく日食を見ていました.しかし,今回は,結構欠けていましたね.これだけ欠けたのは驚きでした.

 ところで,「報道ステーション」では,古舘伊知郎が,変なコメントをしていましたね.「天動説じゃなくて地動説」みたいな....しかし,日食の場合,黄道と白道がドンピシャで重なるかどうかという問題であって,天動説とか地動説とか関係ないんじゃないか(あるいは両方関係がある)と思いましたが....
 最近,中野雄,2002,『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』文春新書 を読んだ.旅の道連れの雑誌のようなつもりで買い,内容には期待していなかったが,意外におもしろかった.
 その中で,中野氏は,アメリカのオーケストラについて,技術的にはうまく縦の線もきっちりと合うのだが,「音楽の内容を表現する伝達手段であるはずの演奏技術が,自己目的化しつつある」という(p.238).そこでは,「機械的な正確さと磨き上げられた表面的な美しさ」 が最も重視されるべき演奏家の課題であるというのである.そのため,音楽コンクールでは,「犯されたミスの数を数えて減点していく」のだが,「この方式だと,どうしてもキチンと無難に弾いた演奏に高得点が集中しがち」になり,「個性的で面白い,将来が期待できる,といった若者がコンクールで上位に入賞する可能性は低くならざるをえない」そうである(pp. 236-7).私なりにパラフレーズするならば,中野氏の言葉からは,「合理性一辺倒への嫌悪」とでもいうような感情が表れているように思える.
 翻って自分のこれまでの学問の経歴を見てみると,私自身もアメリカで数理社会学という,社会学にあってはもっとも合理的な判断を下そうとする領域で仕事をしている.社会学の学界では,数理社会学に対して,あまり快く思っていない人たちもいるようであるから,合理性への嫌悪感というのは,ある意味でどこにでも共通しているのかもしれないと思うのである.
 しかしながら,私の関心は,一貫して合理的なものよりも非合理的なものの方にあった気がする.たとえば,修士論文を書きながら(当時のテーマは,合理的選択理論や進化ゲーム理論だった),単なる合理性で割り切れないことがたくさんあることを学び,博士論文を書きながら,将来は是非とも日本に帰って,日本らしさ(おそらくそれ自体が合理的ではないものを多く含んでいるに違いない)とは何かといったことを研究したいと思っていた.留学中も,ヨーロッパからの留学生たちと,「アメリカ人はアホだよねー」とか「アメリカ文化は単純だよねー」と,単純なので簡単に説明できてしまうことを笑っていたことがあった.私自身は,社会が合理的に説明できることばかりではないという気がしている.合理的に説明しようとして仕切れない部分(このような残余項を「非合理的」部分とでも呼ぶ)が残るならば,それがその社会特有の何某かを表しているのかもしれないと思う.
 実践的問題として,私は,数理的・合理的な思考しか学んでいない.だから,持ち合わせのもので非合理的な対象に向かっていくしかない.たとえば,社会学にありがちな「いい加減な概念」でもって物事を説明したりしようとは思わないし,できないのである.私にそれでよいのだと開き直らせてくれたのは,師匠髙坂健次先生の言葉であった.師匠はカール・マンハイムの「甲羅のない蟹」という言葉について理解できなかったというエピソードを何度か語ってくれた(師匠のウェブサイトにも記述がある).通常,学者というものは「わからない」とは言いにくいもので,何でも知っているかのようなふりをするのが通例であろう.しかし,師匠の言葉は,誰にでもわかること(もちろん,最低限の知識や思考力を前提とした上で)でなければ,理解可能ではないということ,また,そのような態度で臨むべきであるということを説いているのだと思う.
 つまり,こうである.この世の中には,合理的でないように見えるものがたくさんある.しかし,それを理解可能ではない概念でもって説明しようとしても,余計にわからなくなるばかりである.(そんなことで「わからない」と言われても,元の概念が悪いのだからどうしようもないと言うほかはない.)むしろ,そのようなものに対して合理的に説明しようと試み,そして説明できない部分があるときに,はじめて合理的でない対象の合理的でない側面が浮かび上がるようになるのではないかということである.
 さて,クラシック音楽の合理化傾向についてであるが,私の経験から言えば,ブーレーズ指揮ベルリン・フィル(アメリカのオケではないが)の「ダフニスとクロエ」は確かにうまいが,もう一度聴きたいと思えるような演奏ではない.ともかく冷徹である.2人の恋物語が100年の恋も冷めるほど冷たくてよいのだろうかとがっかりしてしまった記憶がある.どうしてこれが99年の『名曲名盤』で一位になってしまったのかと思う.クリュイタンス指揮パリ音楽院のものは,花も毒もあって(←これが非合理的曖昧表現),最初に聴いたときには衝撃を受けたが,あまりに気持ち悪い(よい?)ので,いつも聴きたいとは思わないが,たまにあの毒に触れたくなる気がする毒特な(?)演奏である.私には,一時はフランスのオーケストラ以上にフランス的と言われたデュトワ指揮モントリオール響が,昔から聴きなれていることもあるかもしれないが(といっても,とある理由でたぶん高校生の頃から何十年も聴いていないのだが),ちょうどよい加減にロマンティックで,記憶に残っている演奏である.
 ふだん合理的な判断をすることしか知らない研究者である私にとって,音楽くらい,合理的でなくあってほしいと思う.また,希望としては,そういった非合理的なものがよいと思えることについて,巷で人気の脳科学者が,そのメカニズムは...などとしたり顔で(しかもお座なりに)説明しないでほしいと思うし,解明されてほしくないと思う.標準的な楽典や演奏技術を越えたところにある合理的には理解できない深遠な感性の世界がいつまでも残ることを期待したい.私は,ウィーン・フィルをいつまでも聴き続けるであろう.

 7月11日.この日は日中,阪大で某学会の編集委員会があり,関西にやってきました.
 その足でその晩行われる宝塚市吹奏楽団の第30回の記念コンサートに行ってきました.
 渡辺先生にご招待いただいた形になり,一番前の特等席で拝聴しました.
 プログラムは,以下のとおりでした.

指揮:渡辺秀之*,西村正行
1部
 アルメニアン・ダンス パート1* A.リード
 2009年度全日本吹奏楽コンクール課題曲より
  1.16世紀のシャンソンによる変奏曲 諏訪雅彦
  2.コミカル★パレード 島田尚美
  3.ネストリアン・モニュメント 平田智暁
  4.マーチ「青空と太陽」 藤代敏裕
 ウインドオーケストラのためのマインドスケープ(コンクールバージョン)* 高昌帥

2部
 アルトサクソフォンとバンドのためのチャルダッシュ* V.モンティ:編曲(後藤洋:吹奏楽用編曲)(アルトサクソフォン:高畑次郎)
 歌劇「カルメン」より 闘牛士の歌 G.ビゼー(石川喬雄:編曲)
 ロンドンデリーの歌 P.A.グラインジャー(M.ロジャース:編曲)
 朝鮮民謡の主題による変奏曲 より J.B.チャンス
 ラプソディ・イン・ブルー* G.ガーシュウィン(高橋徹:編曲) (ピアノ:松村英臣)

 久しぶりに渡辺先生の音楽を満喫しました.私が宝梅中学校で先生から指導を受けていたころの自分たちの学年と比べてはいけませんが,基本的な音作りのコンセプトとかは当時から馴染みのあるものであり,たいへん心地のよい音でした.バンドの基本となる音があり,それに加えて,西村さんの指揮のときには,若々しい音が鳴り,渡辺先生のときには芳醇な音が鳴っていました.指揮者によって特有のブレンド法があるのだと思いました.
 曲目は,自分の知っているアルメニアンダンスをはじめ,自分もどこかで演奏したことがある朝鮮民謡の変奏曲など,懐かしい曲が多くて,演奏を聴きながら,昔のことが思い出されました.
 現在の団員さんたちの個人の技量はたいしたものでした.アルメニアンダンスパート1は,どこでどの楽器がこけやすいかということを私は知っているほうだと思いますが,そのあたりもほころびなく演奏されていて感心しました.
 このくらいの演奏ができるので,プロの演奏家の方が2人も協演しに来ていただけるのだろうと思いました.単なるバックバンドという感じではなく,ソリストとバンドの双方が刺激を与え合っているように感じられました.このくらいのレベル(実際,全国大会で金賞を取ったこともある)になると,アマチュアという域は越えていて,セミプロと呼んでもよいのではないでしょうか.少なくとも,アマチュアバンドを冷や冷やしながら聴くといったレベルではありませんでした.

 演奏会終了後,楽団員のレセプションが同会場で行われ,私も渡辺先生にお礼を言うために残っていて,それに参加させてもらいました.私が20数年前に一時的に入団していた頃の懐かしい方々もいらっしゃって,昔話をしたりしました.また,宝梅中学校吹奏楽部の出身者も数名いて(いずれも,ずっと下の学年でしたが),歓談しました.ともかく,もはや演奏する技術も機会もなくなってしまった身としては,ずっと音楽を続けていける機会をみなさんがもっておられることが,ただただうらやましかったです.しかも,渡辺先生のもとなら言うことなしですね.
 帰りは,宝梅中学校の後輩でコンマスのTさんの車に同乗させてもらい,いろいろな話をしながら実家まで送ってもらいました.
 短い時間でしたが,とても濃厚な時間を過ごすことができました.その後も,阪神大震災のこと,吹奏楽を通じての友人・知人関係のことなど,さまざまなことが浮かんでは消え,消えては浮かびというような感じになっています.音楽の背景にあるいろいろな事柄を考えるとでもいうのでしょうか.まだ,自分の中で処理し切れていない感じがします.

 チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は,この世に数ある交響曲の中でもかなりよく知られたものであろう.それはもちろん,曲自体の魅力にもあるが,多くの指揮者がこの曲を何度も演奏会やレコーディングで取り上げるからでもあるだろう.カラヤンもこの曲を生涯に7回も録音している.このうち5~7回目の録音は入手も容易である.そんなわけで,もともとチャイコフスキー好きだった私は,松本からあちこちに出かけていく道中でいわゆる聞き比べをやってみようかと思い立った.そんなわけで,今回はカラヤンの同曲の5~7回目の録音を聞き比べた感想などを述べてみたい.
 まず,録音年,オーケストラ,レーベルの違いは,次のとおりである.

5回目    6回目    7回目
71年    76年    84年
BPO    BPO    VPO
EMI    DG     DG

 内容を理解するために知っておくべきことは,カラヤンは89年に81歳で亡くなっているということである.7回目は最晩年とは言わないまでも晩年の録音である.70年代は,カラヤンとBPOの最もよい時期とも言われている.
 5~7回目を通して聴いてみると,非常に簡単に言えば,「激情の悲愴」から,「内面に抑制された諦観と憧憬の悲愴」への転換が感じられる.
 5回目は,かなりストレートに激情型の演奏が繰り広げられる.特に第1楽章はすさまじい.263小節目アウフタクトからの金管の3連符の迫力は,他の録音では聴けないもので,最近不感症気味かなと思う私でも,初めて聴いたときには鳥肌が立った.また,第3楽章の後半で昂揚してくると,ダイナミックレンジが振り切れているのか,音が明確でないところさえある.実は,5回目の録音は,妻の実家にあった全集ものの1つとしてあるものと,もっと最近にリマスタリングされたものを聴いてみたが,この部分についてはリマスタリングしたものでもきちんとした再現はできていないと思われた.ともかく耳に馴染んだカラヤンのDGの音とに比べると異色の音である.これはレーベルがDGではないので録音のセッティングやミキシングがかなり違うから生じる効果なのだろうか.生音っぽくいつもの艶やかさがない音である.
 6回目は,5回目から5年ほどの後に録音されているが,曲作りは5回目に比べると落ち着いている.激情は抑えられ,大人の演奏とでも言うべきで,私の感想としては,もっとも標準的と言えるような演奏ではないかと思う.第1楽章の楽器間のバランスは,もっともうまく作られているという印象である.BPOも慣れていて,音楽自体の美しさという意味ではもっともよい出来ではないかと思う.ただ,どのような意味での悲愴かと言われると,よい言葉が思い浮かばない.あるランキング本を見ると,6回目より7回目の方が評価は高いようだ.これは,私の推測では,6回目の録音は標準的であるために,7回目の録音などどこか特徴的で評論家好みの演奏に票が入ると,同じカラヤンだからというような理由でこれが敬遠され気味になるのかなという気もする.
 7回目は,一部では「枯れた」と表現されることもあるようである.オーケストラもBPOからVPOに変わっているので,それまでとは随分と違った演奏のように感じられる.これはなぜだろうか.80年代初頭からカラヤンはBPOとの確執があったとされており,70歳代のカラヤンにとっては大きな衝撃だったのであろう.私には,この演奏は,内面に抑制された諦観と憧憬といったものが感じられる.決して内面に秘められた「情熱」といったものではない.私は「確執」について知る前は,死期を悟ったカラヤンの私的な世界の表現なのかなと思っていた.しかし「確執」について知ってからは,長年BPOと築いてきた協力的な関係が70代になって一気に崩れてしまったこと,しかしその年齢になってしまっては関係を取り戻そうとする気力・体力が減退してしまったことなどから,諦観と憧憬が生じてきたのではないかと考えるようになった.それが如実に感じられるのが,第1楽章の50小節目から62小節目にかけて,ファゴットの上昇音型に続いて,木管(最初の2回はフルート・次の2回はオーボエ)の上昇音型とホルンの下降音型が同時に現れる箇所である.ここで,5回目と6回目の録音においては,ホルンの下降音型が強く出ているが,7回目の録音においては木管の上昇音型が強く出ているのである.この上昇音型が,諦観と憧憬を感じさせる.また,ホルンの下降音型がシンコペーションで躍動感があるのに対して,上昇音型は8分音符で落ち着いているので,目の焦点が定まらず空を見上げているように感じさせる効果がますます強くなっているのではないだろうか.また,第1楽章集結部336小節目以降のホルンと木管楽器の重奏分の響きや第4各章の82小節目以降の弦楽器のうねりも切なく,同じようなうつろな感じが出ているように感じられる.第2楽章の弦のうねりも,5/4拍子という不安定さも手伝って深遠な感じになっている.
 さて,アマチュアのオーケストラや吹奏楽団が,どの線を目指すかと言えば,6回目の演奏だろうと思う.演奏技術ではもっとも模範的だと思われるし,いろいろな点で全体のバランスもよいからである.中高生の吹奏楽団などで金管をバリバリ鳴らしたいという向きには5回目もよいかもしれない(ただし,音が割れていない点に注意).7回目はたぶん目指しても無理である.人間臭さがにじみ出てくるような演奏だからである.
 それにしても同じ指揮者が振った音楽とは思えないほど,いずれも違う演奏である.失恋したら5回目,人生に疲れたら7回目,人生悪くないけどロマンティックな悲愴を聴いてみたいなら6回目,なんていう聴き方もできるかもしれない.いずれも味わい深く,どれがよいとか悪いとかいうものではないと思う.

 ところで,カラヤンのこととは別に,「悲愴」そのものについてだが,スコアを見ながら,いくつか「ああ,チャイコフスキーってうまいなぁ」と思うところがあったので,書いておく.(今後も追記するかもしれない.)
 上でも書いた第1楽章の50小節目から62小節目にかけてのことだが,ファゴットは8分音符で上昇し,これをシンコペーションのホルンが下降音型で打ち消すような流れになっているのだが,ホルンがシンコペーションであるところがうまいと思う.シンコペーションにする方が目立つので,明らかにファゴットの上昇音型を打ち消すという意図が強く感じられるのである.ファゴットの上昇音型に込められた意味がわかれば,それを打ち消すことの意味もわかるだろう.また,木管楽器はファゴットに続いて8分音符でさらに上のオクターブで上昇音型を奏でる.木管楽器とホルンでは音量も違うので,ホルンが目立つようになるが,木管の上昇音型が続いていくところに,単なる対位法という技法を越えた意味が感じられる.
 次に,第1楽章の89小節目から第2主題に入るが,第1楽章からのつなぎのところでチェロが16分音符の音型で残るが,トロンボーンとチューバが消えて84小節目から8分音符の3連符に85小節目からは8分音符になるのである.聴き手にとっては,リタルダンドしたと思うだろう.事実,retardando moltoの指示もあるのだが,この指示がなくても,これで十分にリタルダンドしたと思わせる効果ができるのである.あと,同じような手法は,200小節目から201小節目にかけても使われている.ここでもチェロとコントラバスが16分音符の音型から8分音符の3連符に変わる.ここでは,3連符となるときにlegatissimoという指示があるが,これは「変わった」ことをあまり気づかれずにいたいという意図があるのではないだろうか.これによって,音数が少なくなることから一旦昂揚感を沈静化する効果が生まれ,来るべき最大のクライマックスへの準備をするという意味合いがあるのだろう.
Asahi.com 2009年7月2日10時13分
記事内容:

 テーマパークで遊べば、家族や恋人の「きずな」が深まる――。そんな脳科学調査の結果を、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)が1日発表した。 USJで遊ぶ前後に自分たちの集合写真を見せて脳の活動を調べたところ、遊んだ後は数値が最大10倍以上増え、より愛し合っていると感じることが確認され たという。

 調査の詳細は、USJと共同で研究を進めてきた杏林大医学部の古賀良彦教授(精神神経科)が1日、東京で開いた説明会で公表した。

 実験は先月、6組16人の家族や恋人、友人を対象に行った。USJで4時間半楽しんでもらい、その前後に、光トポグラフィーという装置を用いて、 脳が活発に活動すると数値が高くなるオキシヘモグロビンの濃度を測定。あわせて心理状態を客観的に評価するためのテストも行った。

 脳の測定では、対象者にスライドで他人の顔を見せていき、家族や恋人同士で一緒に撮影した写真が出てきた瞬間の状態を記録した。

 結果は、右脳から左脳まで測定した16カ所のすべてで遊んだ後の数値が高かった。特に右脳の一部では、遊んだ後の数値が遊ぶ前の14倍に上昇。右脳は主に感情をつかさどっており、写真を見た瞬間に強い感情の動きがあったことが確認できるという。

 感情がどう変化したかを自己評価してもらうテストでは、家族やパートナーと「愛し合っているか」「理解しあっているか」という質問への肯定的な回答の割合が、遊ぶ前と比べて大幅に高かった。遊んだ後はストレスが大きく減ったことも分かった。

 古賀教授は「複数の脳活動を測定した結果、明らかに差が出た。脳科学の見地からテーマパークでの体験によってきずなが深まることが裏付けられた」と話している。(佐藤亜季)


コメント:
 光トポグラフィーとかいう装置がどうしたこうしたということについては,何も知らないので,とりあえず「そうですか」としか言いようがないが,アクティブに活動すれば脳は活性化されるだろうということは,想像に難くない.
 それにしても,心理尺度がずさんという印象である.家族やパートナーと「愛し合っているか」「理解しあっているか」なんて,ふつうの心理学者なら,そんな訊き方はしないだろう.そんなことを遊ぶ前後で2回測ったら,実験参加者もバカじゃないから,「ああ,この研究者は,後の方で「より」愛し合ってるとか,理解し合ってると肯定的に答えてほしがっているんだわ」と気づくこと必定である.こんなずさんなやり方は,心理学者は取らないものである.
 しかし,まあ,常識的に考えても,楽しい経験をしたら,一緒にそれを体験した人に対してポジティブな感情が高くなることは当然だろうとは思う.しかし,私が問題にしたいのは,それが遊園地やテーマパーク,とりわけUSJでなければダメかというと別にそういうわけでもないだろうということである.私は,近くの公園で子どもと一緒に遊んでも,十分に楽しいし満足ですよ.問題は,USJやテーマパークが,他とは違い格別の効果を持っているかどうかが問題ではないだろうか.そしてまた,ふつうの公園と比べて有意に効果があったとしても,それが果たして数千円,家族なら1万円を超えるかもしれない出費に見合った返報があるかという点も重要であろう.家計管理者にとって1万円をUSJで消費するストレスは,結構高いと思うのだがどうだろうか.
 それから,この記事のような効果があるとしても,実際には効果は一時的なものだろう.それは,テーマパークに行ったことの感情の高まりが継続するわけではないからである(いつまでもハイテンションが続くのは逆に問題だろう).この記事では,事後測定がいつ行われたのかについては明確な記述がないが,仮に遊園地を出た時点ですぐに測定が行われたとすれば,タイトルにある「愛は深まる」というのは,一時的な昂揚感が反映されている可能性が高く,やや言い過ぎの感がある.もちろん,愛が経験の積み重ねで「少しずつ」深まっていくことはあるだろうが,テーマパーク1回で愛が「断然」深まるほど,愛というものがちっぽけではないことを私は逆に望みたい.

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