最近
「文化的イベント」の仕事をし始めて、あまりにも無知なのもどうかと思い、本屋で目に付いた
中川右介,2009,『世界の10大オーケストラ』,幻冬舎新書
を読んだ。新書なのに500ページもあるし、1300円もする...笑。
この本は、中川氏が選んだ10大オーケストラの成立から現代までの変遷の様子が描かれているが、細かいところはともかくとして、どのオーケストラにおいても、2度の世界大戦で混乱しないことはなかったこと、指揮者と指揮者、指揮者とオーケストラ、政治家や実業家と音楽家、の間の友情・嫉妬・憎悪・権力闘争といった関係によって少なからず不安定な時期を経験していることがわかった。延々と500ページにわたってそういった話を読むのは、なかなかきついものであった。どの世界でも人間関係というのはどろどろしているものだが、「音楽界、お前もか」という感じであった。中川氏が何を描きたかったのかはさておき、私自身としては、音楽界でやっていくことの難しさがよくわかった。「音楽家を目指さなくてよかった」とも率直に思った。私のような人間には、そのようなどろどろした世界でやっていくことはできなかったであろうと。少なくとも社会学の世界の方が、まだマシそうである。少なくとも、私はそのようなややこしい関係をほとんど経験せずにやって来られている。かなり幸せな方であると思う。
しかし、気になったのは、この本の「エピローグ」と「あとがき」の部分である。「カラヤンの死とベルリンの壁崩壊、そして東欧の民主化とドイツ再統一にソ連崩壊をもって、十のオーケストラの大きな物語も終わった。」(p.489) (チェコ・フィルについて)「かつては政変がなければ主席指揮者が交代しなかったオーケストラは、自由と民主主義を得ると、主席指揮者交代という点でも、他の多くのオーケストラと同じようになってしまった。[中略]トルストイの小説の冒頭の一節、「幸福な家庭はみな似ているが、不幸な家庭はそれぞれである」が思い出される。チェコ・フィルは幸福なオーケストラになったのである。いや、チェコ・フィルだけではない。どのオーケストラもみな幸福なオーケストラになった。」(p.499) そして「あとがき」に突入し、「昨今は、オーケストラに限らず、指揮者も、あるいはピアニストやヴァイオリニストといった独走者たちも、「個性がなくなった」と言われる。[中略]個性がないのは、みんなが幸福になったからなのだ。個性あるオーケストラ、個性ある指揮者が、戦争と革命の不幸な時代がもたらしたものだとしたら、それを生むためには、またも何千万もの人々が殺されなければならない。現在のオーケストラに個性がなくても、別にいいではないか。昔のような個性を聴きたければ、過去の録音を聴けばいいのだ。」とある。
私は、上の引用部分については、いかがなものかと疑問を呈さざるをえない。まず、トルストイという権威をふりかざして、持論を強引に正当化しようとするようなところは耐え難い。しかもその後の持論は、内容としてもあまりにもひどい。オーケストラや指揮者の個性がなくなったのが、「戦争と革命の不幸な時代がもたらしたものだとしたら」というのは、仮定文の仮定部分だが、その仮定部分はおそらくほとんど根拠はないだろう。社会学的に言えば、戦争と革命があると(/ないと)オーケストラや指揮者の個性が生まれる(/なくなる)というメカニズムが全く提示されておらず(500ページにのぼる記述の中で、メカニズムについては一切明示的に述べられていない)、単なる思いこみとしか思えないのである。結論的には、中川氏は、オーケストラも指揮者ももはや個性的でなくてもよいとは言うものの、個性を生むためには、戦争で多くの人々が殺されなければならないというのは、言論の自由ではあるが、あまりにも行き過ぎで洒落にもなっていない。
まあ、筆が滑ったのだろうと思うことにしたいと思うが、それにしても、現代のクラシック音楽界は、個性がなくなってしまったのだろうか。それもまた、言い過ぎであるように思うのである。指揮者や音楽家たちが「平和ぼけ」している程度がどれほどなのかは知らないが、平和ぼけしていることと個性がなくなることとは、直接的な関係はないように思える。(少なくともこの種の言明は、事実上ほとんど検証不能であると思える。)実際、私は、現代の音楽家たちに個性がなくなったとは全く思えないのである。たとえば、私は、先日、木曽音楽祭の数日前にリハーサルの現場を訪問したときに、ある演奏家の方と(他の人たちも交えて)数分間話をする機会があった。彼は明るく裏がない雰囲気を持っていたが、それは数日後に彼の演奏を聴いたときにも、そのまま現れているように感じられた。音楽そのものもそうだし演奏するときの体の動きも、話をしたときの彼の雰囲気と合致していると感じられたのである。彼はおそらく私と同世代である。戦争は経験していない。しかし、彼自身のそれまでの人生経験・音楽経験は、彼自身の音楽となって表現されていたと感じられたのである。もう少し前の経験だと、6月にツィメルマンのリサイタルを聴きにいったとき、彼の演奏するシマノフスキの「ポーランド民謡の主題による変奏曲 作品10」は、本当に素晴らしかった。シマノフスキは第1次世界大戦を経験している。ツィメルマンは戦争を経験しているわけではない。しかし、同じポーランド人であるからだろうか、ツィメルマンは、ポーランドがシマノフスキの時代以前から経験していた占領の歴史をえぐるかのように陰鬱とした世界を表現しており、しかもそれが、現代のわれわれ聴衆にさえ訴えかけるような、強い説得力を持った演奏であった。もちろん、曲自体に力があるかもしれない。しかし、あれほどまでに心を打たれたのはなぜだろうか。それは、ツィメルマンが現代的な個性をもっているからこそ、現代人である私に訴えかけてきたのではないかと思うのである。単に楽曲を冷静に分析して普遍的・客観的な演奏を目指していたのなら、あのように訴えかける演奏はできなかったのではないかと思うのである。(蛇足だが、私個人としては、モーツァルトのアカデミックな古楽器演奏などには、ほとんど心を動かされることはない。また、フルトヴェングラーのCDを聴いて、確かによい演奏だけど「古い」と思うタイプである。別に私は音楽家でも音楽評論家でもないので、好きなように(偏向して)音楽を聴くだけの人間である。)おそらくは、冷静に楽曲を分析をした上で、ツィメルマンという現代人の中で彼なりに解釈された上で表現されたものに、私は感銘を受けたのだと思うのである。
「今の子たちって本当に...」といった批判はいつの世にもあるようである。「現代の音楽家には個性がない」というのも、そういった言い方の1つなのかもしれない。「今の子たち」を批判する人は、自分の過去を美化するか忘れている、あるいは、自分のすごさを誇示しようとしている、あるいは、細かい違いを(意図的にか非意図的にか)見ないで過度に十把一絡げにする傾向がある、あるいは、かなり超越的な領域に到達している(と本人だけは思っている)、といったあたりのことが多いように思われる。現代の音楽家が「個性的でない」というのは、相当に厳しい批判であると思うが、それは、どういったところから来ているのだろうか。少なくとも、音楽家の細かい違いが見えないというのなら、音楽評論家としてはつとまらないように思う。
少し自分の領域である社会学において反省的に考えてみると、現代の社会学者たちは、19世紀後半から20世紀初頭の社会学者に比べて個性的でなくなっているかというと、それはないと思う。確かに過去の文献を引用しながら、巨人の肩の上に乗って仕事をしているという点では、どんどん小さくなっているという見方もできるかもしれない。端から見れば、関心の近い2人の研究者の違いなど全くわからないかもしれない。(たとえば、私とある本の翻訳をしたT氏とは、
同じ大学院の出身だが、われわれ2人は、関心も感性もかなり違うと私は自覚している。しかし、端から見たら、同じようなのが2人いるとしか見えないかもしれない。)しかし一方で、対象を見るための側面を新たに見つけようとしたり、より詳細・繊細に対象を分析したりするようになっている。その点では学問ははるかに進んでいるし、研究者は個性を競い合っているように思える。
今のところ、「社会学(者)評論家」という人がいないことは幸いなことであると思う。もし、そのような職業の人がいて、自分では社会学そのものの実践には手を染めないのに社会学者を批判して、「最近の社会学者は個性がないね」とか言われたら、相当にむかつくだろうと思うのである。音楽家という人たちはそういう世界で生きているのだなと思うと、非常にたいへんなことだと思う。やや自虐的に言えば、社会学者でよかったと思う。最近は大学院修士課程くらいでは、誰に師事するかなんてことよりも、どこの大学に入るかみたいなことで決めようとする人もいるようである。ほとんど学者の仕事そのものには注目されていないのだと思う。院生候補生でさえそのくらいだから、世間からなどほとんど注目されていないのだろう。だからこそ、好きなことができて批判されることもないのかもしれない。(んー、ここまで自虐的に書くのは初めてかも...笑)
音楽界というのは、端から見ると華やかな世界であるが、そこに身を置いている人にとっては、なかなかたいへんなのだろうと思う。しかも、マスコミや評論家が、ちょっとしたことをスキャンダラスに報道し、傷口を広げる役割を果たす。輪をかけてたいへんだと思う。ここまでさんざん批判してきたが、中川氏の失地回復を図る材料もある。それは、随所で、「ここはこのように言われているが、それはある立場から見ればのことであって、別の立場から見れば、そのようには見えないかもしれない」といった書き方をしていることである。そのような記述には、評論家としてなるべく偏らない立ち位置の取り方を考えておられると推察され、好感が持てた。
ともかく、この本で、音楽界の人々のネットワークがどのようなものであるかを概観することができた。私が翻訳した
リントン・フリーマンの『社会ネットワーク分析の発展』も、ネットワークの研究者たちが、大学を移動しながら、空きポストに次の人が入り、そして知が継承・発展されていく過程が描かれている。この本は10大オーケストラの紹介が本来の目的なのだろうが、結果的に、私には音楽界のネットワークの記述のように感じられた。いろいろなライバル間の確執や権力闘争も、きちんとネットワーク分析してみると、説明がつくところもあるのではないかと思う。そうすれば、歴史(特に戦争)だけが個性を育むといった解釈とは違ったものが生まれてくる可能性があるのではないかと感じられた。
500ページも読んだのである。まだ書きたいことは山のようにあるのだが、仕事に戻らなければならないので、とりあえず、このへんで一度終了。もう午前1時だが、もう一仕事するとしよう。今日はこのまま徹夜かな...苦笑。お気楽な仕事です。