2009年9月アーカイブ

 何かのはずみで、何でそんなことを思い出すのかということがある。今日は、まさにそんな日であった。そろそろ新学期が始まる。研究室のメーリングリスト宛に連絡のメールを書いていた。この時期に心配なのは、卒論を書く4年生である。私のプロジェクトで一緒にやっている学生たちは毎日のように顔を見ているが、この夏休み全く見ないやつもいたなー、「やってる人はようやってるけどやってない人はまったくやってない」と思った瞬間に蘇ったのが、「知ってる人はよう知ってるけど知らん人はまったく知らん」というフレーズである。志賀勝の「道」という歌の最初の台詞である。
 中3のとき、クラスメートのNというやつが、しょっちゅうこの歌の台詞の部分を熱演して爆笑を取っていた姿が思い浮かんだ。
 ググってみたら、歌詞も出てくるし、YouTubeにもあがっている。歌詞も曲もあまりにもストレートで、YouTubeを見ながら大爆笑してしまった。昭和レトロを通り越して、あまりに近代以降に普遍的な感じがして、ツボにはまりすぎてしまい、大爆笑。そこまで言うのという歌詞と歌は(もちろん台詞も)あっぱれと言うほかはない。
 帰り道、おそらく40数年生きてきてはじめて演歌が頭の中をぐるぐる回っていた...苦笑。昨日は、ブルックナーの9番だったのに...。

 家にたどり着いてテレビをつけたらロンドンハーツをやっていた。石田純一が東尾理子にプロポーズするまでの一連の追っかけ番組だった。単なる興味本位で見ていたのだが、石田純一がお父さんを前に結婚の承諾を得に行く練習をしている場面があった。しかし、この場面では、「やっぱり石田純一も昭和レトロやな」と思ってしまった。それは、「娘さんを下さい」と言っていたところ。「ああ、そうなんだ」という感じでがっかりしてしまった。「女は男の所有物なのか」、「女を家にもらうのか」、と。軟派といわれる石田純一もその部分は年相応かと苦笑するほかなかった。この人の一見リベラルそうな軟派さと根本的なところで実はそうではないあたりが象徴的に出ている気がして、これがこの人が何度も離婚を繰り返す理由なのかもしれない(最初の期待とその後がきっと違うのではないか)と下衆の勘ぐりをしてしまった。

 気を取り直して、YouTubeで再度志賀勝を見る。1人の男としての爽快さがあり、こちらの方がずっと愉快で単純に笑える。

何のこっちゃ。
植松黎,2000,『毒草を食べてみた』,文春新書.
 先日,衝動買いをした本の1つ.別に私は変な趣味があるわけでもないし,変な願望があるわけでもないが,純粋に「へー,食べたらどうなるの?」という小学生レベルの興味関心が喚起され,一目惚れで買ったという次第である.当たり前のことだが,学者・研究者というのは,専門領域の範囲を越えれば全く素人と同じである.だから,「食べたらどうなるの」といったレベルの話にしかならないのだが,ご容赦いただきたい.多少無理して学者面するとすれば,全くの素人と違うことと言えば,統計学など方法論については共通部分が多いので,そのレベルで疑問を呈することができるようになる程度だと思う.
 実は,私は,いわゆるお勉強の理科という科目の中で,動植物については毛嫌いしていた.そもそも動植物が好きではなかったこともある.身近によくいる犬や猫にしても,吠えられたり,追いかけられたり,糞を踏んでしまったり(思い出すだけで気分が悪い),隣の犬が手入れが悪く臭かったりなど,よい思い出など全くない...苦笑.また,小学校の高学年くらいで進学塾に行ってみたものの,のっけから植物の種類やら構造やらを無理矢理に暗記させられ,嫌いになったという暗い過去がある.(動物については,人間も動物なので,まだ身体構造などそれなりに関心は持てるところもあったが,)植物は無関心(別に嫌いではない)なのに覚えさせられるというのが苦痛以外の何ものでもなかった.おしべやめしべがあるということくらいはまだよいとしても,花びらが「何枚」とか,がくが「いくつ」とか,それを知ること,覚えることの意義や意味については全く理解できなかった.そんなことを覚えることはムダとしか思えなかったのである.ともかく,こんなことやってられるかと,塾はすぐにやめた.このトラウマティックな経験のために,少なくとも大学生になるまで,私は動植物について関心を持つことはほとんどなかったのである.
 私が中高生くらいのときには,今はやりのバイオ・テクノロジーが話題になる以前だったが,もう少し時代が違えば,そのあたりの草木が金のなる木に見えてもっと早くから関心が持てたのかもしれない.しかし,植物に自発的な関心が起こってきたのは大学生になってからだったと思う.季節の花があったりすることに,多少とも関心を持てるようになった.受験のための勉強という忌々しいものの見方しかできなかったのだが,そこから解放されたからかもしれない.
 そんな高校生のころまでのことを思えば,この本が目にとまって買ってみようという気になったというのは,私の中では大転換が起こったようなものである.しかしなお,もしかすると,自分が忌み嫌っていた植物というものが,やはり恐怖の存在であることを知って,これからも近づかないでおこうと思えるような理由づけがしたいと思ったのかもしれない.

 しかし,この本は,そんな私に植物の面白さを非常によく教えてくれた.確かに自然に対する畏怖の念というか恐怖心というかも喚起されたのだが,著者である植松氏が,そんな恐ろしい植物を嬉々として口に含み,「おー,ピリピリするよ」ってな感じで楽しまれている姿が想像され,読者にもそのドキドキ感が伝わってくるのである.バカみたいに使い古された言い方をすれば,植物に対する「愛」とでもいうのだろうか,そういうものが伝わってくるのである.
 また,ギリシャ神話などで,それらの毒草が麻薬や媚薬として使われてきた話とか,吹き矢の先につける毒としての効力の話とか,根も葉もないこじつけ話など,植物と人間との関わりについて,イマジネーションを喚起させてくれる本でもあった.

 毒草の話など小学生の教育には向かないとは思うが,小学校の高学年とか中学校とかくらいになって,ある程度の分別がついた頃に,こういった話を理科の先生がしてくれたならば,私は植物に対してもっと関心を持てたかもしれないと思った.好きこそものの上手なれ,なのだと.
 ちょっと反省的に述べれば,昨年から信州大学にやってきて,本来の専門であった社会学の分野に戻ってきて講義やゼミを担当している.私もこれまでとは違う充実感はあるのだが,その理由の1つは,おそらく,自分が面白いと思うことを学生に伝えているからだと思う.学生にしても,教員がそのことに関心を持っているかどうかということに,何となく気づくようである.特に概論系の科目などでは,それが如実に表れる気がする.概論というのは,自分の専門領域の核心部についての話もするが,周辺的な部分についての話もしなければならない(むしろ,まじめに概論をやろうと思えば,周辺的な部分の方がずっと多くなる).以前は,ある概論科目を担当していて,自分があまりその領域の専門家という気がしていなかったために,ほとんど全てのトピックが周辺部分のような気がしていた.そのほとんどの部分の面白さがよくわからず,当然自分なりに消化しきれなかったので,通り一遍の話をしておしまいということになっていたように思う.それでは,学生は面白くなかっただろうなと思う.そのことを悟られまいと,例を増やしたりという努力はするのだが,本質的に面白いと思えないことについては,単に例をあげるだけでは,表面的な面白さにとどまってしまっていたのだと思う.それが,本来の専門である社会学に戻ってきて思うのは,周辺的な事柄であっても,自分の言葉でしゃべれるということである.たとえば,一通り概論的な話をしたあとで,自分なりにコメントをつけるとかいうことができるのである.それが借り物でない本来の専門の立場からコメントができるので,教える側もとても楽しい.学生たちからは,私は授業中にもっと弾けてよいと言われることが多いのだが,学生の授業評価などを見ても,学問自体の面白さはきちんと伝わっているように思える.話術が巧みで面白おかしいということはないのかもしれないが,中味の面白さは伝わっていると思うのである.(まあ,私は芸人ではないので,そのへんは勘弁してほしい.)
 ともあれ,植松氏は,植物の面白さを心から伝えている.専門的な小難しい話はほとんどないので,全体として,自殺願望などない中高生で,植物について学んで何が面白いのかを知りたいという人には,ちょっと変わった側面からかもしれないが,とてもよい導入になるだろう.私自身が,中学校くらいのときに読みたかったと思う.当初,「とんでも本」の類かと思っていたが,その期待を外す好著であると思う.もちろん,専門家ではないので真偽の判断をすることはできないが,毒としてよりも薬効の方が大きいと思われた.

池内了,2008,『疑似科学入門』,岩波新書.
 最近,本屋を物色していて衝動買いした本の1つであった.「またこの種の本か」と思ったが,目次を見ると,第4章が「科学が不得手とする問題」となっており,その中には,「複雑系」について書かれているようであった.「へー,どんなことが書かれているのかな.」それが決め手となって買うことにした.
 この著者は,もともとは物理屋さんのようである.だからというか,後述するが,話が心理学や社会科学の方面になると,記述自体にかなり怪しいところも出てきて,ちょっと苦しかった.
 しかし,おおむね,池内氏の言いたいことはわかる.最終的にもっていきたい方向としては,(「疑似科学」自体とは離れてしまうようにも感じられるが,)環境といった複雑系に関しては,よくわからない点も多いが,「予防措置原則」に従い対策をすれば,少なくとも負の結果にはならない,ということのようである.
 しかしながら,2つの大きな問題と,些末な問題がいくつか残されていると感じた.

 大きな問題の1つめは,「予防措置原則」についてである.複雑系の問題については,どのような結果になるか予想できないから,ネガティブな方向の予測を引き起こさないように対策すべきだという.そのこと自体はわからないでもないし,まあ,そんなものかなと思うのだが,そのあたりに物理学者の限界を感じる気もした.たとえば,環境問題を考えてもわかるが,それに対応するためのコストは膨大にかかる.産業界の少なくとも一部の業界が温暖化対策に対して批判的なことは見てのとおりである.これは1つの例だが,複雑系であるために結論がよくわからないという問題はたくさんある.全てについてネガティブな予測に基づいて対策をしていたら,全体として,どれだけたくさんのコストがかかってしまうのだろうか.それでは,社会的非効率を招く可能性が高い.われわれは,社会的効率を捨ててまで,社会的非効率を選ばねばならないのだろうか.そこには,社会的合意という,物理学とは別の次元の問題が関わっている.それから,社会的合意の一種だが,環境問題には,われわれが未来の世代に対してどれだけ責任を持たねばならないのかという,これまた物理学とは別の次元の問題が関わっている.たとえば,ある人が,社会的に非効率になることがある程度は仕方ないと思っているとしても,将来の世代に対してそれほど責任を持つ必要はないと考えているのであれば,せいぜい自分が死ぬまでは快適に過ごせさえすればよいと思うだろう.そんな人に対して,あまりにも面倒な省エネやあまりにも厄介なゴミ分別をお願いしても聞き入れてはもらえないだろう.
 2つめの大きな問題は,複雑系についてである.私は,社会科学で扱う現象の複雑さは,自然科学者が通常扱う複雑系の複雑さと比べて,はるかに複雑だと思っている.言ってみれば,社会科学の扱う複雑さは,「スーパー複雑系」(笑)である.池内氏も,どこかで人間が複雑だと言っていたと思うが,社会の複雑さは,氏が思う以上にもっと複雑である.だからこそ,上述のような社会的合意に関わる問題がすっぽりと抜け落ちてしまったりするのだろう.環境問題に一部の人々や産業界が否定的なのは,それが非科学的だからとか,複雑系で結果がわからないからではなく,社会的合意ができていないからといったところにもある.私は,池内氏が,一応,人間は複雑だと言ってみるものの,人間や社会の複雑さについて,直観として意外にわかっていないのではないかという感じがしたのである.

 些末な問題をいくつか.
 1つは,ホーソン効果についてだが,たぶん,若干の誤解があるのではないかと思う.p.66あたりの記述が,通常,心理学者や社会学者がホーソン実験として知っている内容と違うのである.
 もう1つは,菊池聡氏(実は,同僚)の『超常現象をなぜ信じるのか』をかなり長々と引用しているところである.そこで,菊池氏の言うままに血液型判断や血液型占いについてそれが非科学的だと批判している.しかし,心理学の学生が,いくら血液型判断は科学的ではないと言われても,影では血液型判断の話をしているのは見て知っているし,私自身もそれが非科学的はあると知っていながら,毎朝の「特ダネ!」の血液型占いを楽しみにしている(現在のあみだくじは,以前のトラックレースよりもいい感じである).別に非科学的であることに反対しているのではない.コンサマトリーな会話のために必要だからでもない.人間には簡単に物事を判断できないときや,決定できないときがあるものである.そんなときに,結局一か八かでどちらかに決めるわけだが,そのときにコイントスをするか,サイコロを振るか,血液型占いの言明に身を委ねるかである.全然科学的だと信じていない.また,占いのとおりにやったらうまくいくと思っているわけでもない.しかし,ルーマン風に言えば「複雑性の縮減」の一つのやり方として使っているだけのことである.逡巡して意思決定できない状態でいるわけにいかず,どちらかに意思決定しなければならないとき(どちらに転んでも良いことも悪いこともあるとき)に,非科学的であれ占いは利用できるのである.愛の告白をすれば,うまくいくか振られるかのどちらかであることは知っている.しかし,占いが「今日は告白するのによい日です」と言ってくれれば,リスクが小さくなるとは全く思わなくても,その日にしようと意思決定できるのである.
 また,宗教について批判しているのだが,「宗教」ではなく「疑似宗教」という言い方をしているのが気になる.しかし,そこで述べられている内容は,「疑似」などと言わなくても「宗教」そのものについてである.「怪しげな宗教」とそうではないちゃんとした「宗教」の本質的な違いがあると考えているのだろうか.どうも「幸運グッズ」が気に入らないらしいが,宗教を信じる人にとって,宗教が科学的であるかどうかなど関係ないのである.藁をもすがる境遇になったことがあるか,と池内氏に訊いてみたい.宗教は,強者には理解できまい.お守りを身につけて少しでも気が楽になればよいではないか.お参りをして少しでも神様仏様に向かって内心を吐露できればよいではないか.社会生活において,科学的であるかどうかだけが基準ではないのである.

 この本を読んでの全体的な感想だが,別に特に賢くなったということはなかった.今までの自分の考え方をもう一度見直したという程度である.複雑性に関わる部分も特に目新しい考え方ではなかったので,期待通りではなかった.科学者は,自分が対象としているモノについては標準的な科学的手続でもって問題を解決することが重要だが,一般の人々が,そうである必要はない(多くの場合コスト的にも能力的にも無理だ)し,実際に多くの場合そうではない.別に啓蒙が必要であるなどというつもりもない.脳死の問題など,科学的にいかに解明が進もうとも,そのことによって人々の信念が変わるとはあまり考えられない.科学だけが人間にとってのよりどころではないことを示唆する顕著な例であろう.それよりは,周りの人々や世論に脳死を人の死と認める人が増えれば,自分も何となくそんなものかなと思えてくるようになるといったことはありそうだ.ここでも科学的であるかどうかは,あまり関係ないと思われる.
 最近「文化的イベント」の仕事をし始めて、あまりにも無知なのもどうかと思い、本屋で目に付いた
中川右介,2009,『世界の10大オーケストラ』,幻冬舎新書
を読んだ。新書なのに500ページもあるし、1300円もする...笑。

 この本は、中川氏が選んだ10大オーケストラの成立から現代までの変遷の様子が描かれているが、細かいところはともかくとして、どのオーケストラにおいても、2度の世界大戦で混乱しないことはなかったこと、指揮者と指揮者、指揮者とオーケストラ、政治家や実業家と音楽家、の間の友情・嫉妬・憎悪・権力闘争といった関係によって少なからず不安定な時期を経験していることがわかった。延々と500ページにわたってそういった話を読むのは、なかなかきついものであった。どの世界でも人間関係というのはどろどろしているものだが、「音楽界、お前もか」という感じであった。中川氏が何を描きたかったのかはさておき、私自身としては、音楽界でやっていくことの難しさがよくわかった。「音楽家を目指さなくてよかった」とも率直に思った。私のような人間には、そのようなどろどろした世界でやっていくことはできなかったであろうと。少なくとも社会学の世界の方が、まだマシそうである。少なくとも、私はそのようなややこしい関係をほとんど経験せずにやって来られている。かなり幸せな方であると思う。
 しかし、気になったのは、この本の「エピローグ」と「あとがき」の部分である。「カラヤンの死とベルリンの壁崩壊、そして東欧の民主化とドイツ再統一にソ連崩壊をもって、十のオーケストラの大きな物語も終わった。」(p.489) (チェコ・フィルについて)「かつては政変がなければ主席指揮者が交代しなかったオーケストラは、自由と民主主義を得ると、主席指揮者交代という点でも、他の多くのオーケストラと同じようになってしまった。[中略]トルストイの小説の冒頭の一節、「幸福な家庭はみな似ているが、不幸な家庭はそれぞれである」が思い出される。チェコ・フィルは幸福なオーケストラになったのである。いや、チェコ・フィルだけではない。どのオーケストラもみな幸福なオーケストラになった。」(p.499) そして「あとがき」に突入し、「昨今は、オーケストラに限らず、指揮者も、あるいはピアニストやヴァイオリニストといった独走者たちも、「個性がなくなった」と言われる。[中略]個性がないのは、みんなが幸福になったからなのだ。個性あるオーケストラ、個性ある指揮者が、戦争と革命の不幸な時代がもたらしたものだとしたら、それを生むためには、またも何千万もの人々が殺されなければならない。現在のオーケストラに個性がなくても、別にいいではないか。昔のような個性を聴きたければ、過去の録音を聴けばいいのだ。」とある。
 私は、上の引用部分については、いかがなものかと疑問を呈さざるをえない。まず、トルストイという権威をふりかざして、持論を強引に正当化しようとするようなところは耐え難い。しかもその後の持論は、内容としてもあまりにもひどい。オーケストラや指揮者の個性がなくなったのが、「戦争と革命の不幸な時代がもたらしたものだとしたら」というのは、仮定文の仮定部分だが、その仮定部分はおそらくほとんど根拠はないだろう。社会学的に言えば、戦争と革命があると(/ないと)オーケストラや指揮者の個性が生まれる(/なくなる)というメカニズムが全く提示されておらず(500ページにのぼる記述の中で、メカニズムについては一切明示的に述べられていない)、単なる思いこみとしか思えないのである。結論的には、中川氏は、オーケストラも指揮者ももはや個性的でなくてもよいとは言うものの、個性を生むためには、戦争で多くの人々が殺されなければならないというのは、言論の自由ではあるが、あまりにも行き過ぎで洒落にもなっていない。
 まあ、筆が滑ったのだろうと思うことにしたいと思うが、それにしても、現代のクラシック音楽界は、個性がなくなってしまったのだろうか。それもまた、言い過ぎであるように思うのである。指揮者や音楽家たちが「平和ぼけ」している程度がどれほどなのかは知らないが、平和ぼけしていることと個性がなくなることとは、直接的な関係はないように思える。(少なくともこの種の言明は、事実上ほとんど検証不能であると思える。)実際、私は、現代の音楽家たちに個性がなくなったとは全く思えないのである。たとえば、私は、先日、木曽音楽祭の数日前にリハーサルの現場を訪問したときに、ある演奏家の方と(他の人たちも交えて)数分間話をする機会があった。彼は明るく裏がない雰囲気を持っていたが、それは数日後に彼の演奏を聴いたときにも、そのまま現れているように感じられた。音楽そのものもそうだし演奏するときの体の動きも、話をしたときの彼の雰囲気と合致していると感じられたのである。彼はおそらく私と同世代である。戦争は経験していない。しかし、彼自身のそれまでの人生経験・音楽経験は、彼自身の音楽となって表現されていたと感じられたのである。もう少し前の経験だと、6月にツィメルマンのリサイタルを聴きにいったとき、彼の演奏するシマノフスキの「ポーランド民謡の主題による変奏曲 作品10」は、本当に素晴らしかった。シマノフスキは第1次世界大戦を経験している。ツィメルマンは戦争を経験しているわけではない。しかし、同じポーランド人であるからだろうか、ツィメルマンは、ポーランドがシマノフスキの時代以前から経験していた占領の歴史をえぐるかのように陰鬱とした世界を表現しており、しかもそれが、現代のわれわれ聴衆にさえ訴えかけるような、強い説得力を持った演奏であった。もちろん、曲自体に力があるかもしれない。しかし、あれほどまでに心を打たれたのはなぜだろうか。それは、ツィメルマンが現代的な個性をもっているからこそ、現代人である私に訴えかけてきたのではないかと思うのである。単に楽曲を冷静に分析して普遍的・客観的な演奏を目指していたのなら、あのように訴えかける演奏はできなかったのではないかと思うのである。(蛇足だが、私個人としては、モーツァルトのアカデミックな古楽器演奏などには、ほとんど心を動かされることはない。また、フルトヴェングラーのCDを聴いて、確かによい演奏だけど「古い」と思うタイプである。別に私は音楽家でも音楽評論家でもないので、好きなように(偏向して)音楽を聴くだけの人間である。)おそらくは、冷静に楽曲を分析をした上で、ツィメルマンという現代人の中で彼なりに解釈された上で表現されたものに、私は感銘を受けたのだと思うのである。
 「今の子たちって本当に...」といった批判はいつの世にもあるようである。「現代の音楽家には個性がない」というのも、そういった言い方の1つなのかもしれない。「今の子たち」を批判する人は、自分の過去を美化するか忘れている、あるいは、自分のすごさを誇示しようとしている、あるいは、細かい違いを(意図的にか非意図的にか)見ないで過度に十把一絡げにする傾向がある、あるいは、かなり超越的な領域に到達している(と本人だけは思っている)、といったあたりのことが多いように思われる。現代の音楽家が「個性的でない」というのは、相当に厳しい批判であると思うが、それは、どういったところから来ているのだろうか。少なくとも、音楽家の細かい違いが見えないというのなら、音楽評論家としてはつとまらないように思う。
 少し自分の領域である社会学において反省的に考えてみると、現代の社会学者たちは、19世紀後半から20世紀初頭の社会学者に比べて個性的でなくなっているかというと、それはないと思う。確かに過去の文献を引用しながら、巨人の肩の上に乗って仕事をしているという点では、どんどん小さくなっているという見方もできるかもしれない。端から見れば、関心の近い2人の研究者の違いなど全くわからないかもしれない。(たとえば、私とある本の翻訳をしたT氏とは、同じ大学院の出身だが、われわれ2人は、関心も感性もかなり違うと私は自覚している。しかし、端から見たら、同じようなのが2人いるとしか見えないかもしれない。)しかし一方で、対象を見るための側面を新たに見つけようとしたり、より詳細・繊細に対象を分析したりするようになっている。その点では学問ははるかに進んでいるし、研究者は個性を競い合っているように思える。
 今のところ、「社会学(者)評論家」という人がいないことは幸いなことであると思う。もし、そのような職業の人がいて、自分では社会学そのものの実践には手を染めないのに社会学者を批判して、「最近の社会学者は個性がないね」とか言われたら、相当にむかつくだろうと思うのである。音楽家という人たちはそういう世界で生きているのだなと思うと、非常にたいへんなことだと思う。やや自虐的に言えば、社会学者でよかったと思う。最近は大学院修士課程くらいでは、誰に師事するかなんてことよりも、どこの大学に入るかみたいなことで決めようとする人もいるようである。ほとんど学者の仕事そのものには注目されていないのだと思う。院生候補生でさえそのくらいだから、世間からなどほとんど注目されていないのだろう。だからこそ、好きなことができて批判されることもないのかもしれない。(んー、ここまで自虐的に書くのは初めてかも...笑)
 音楽界というのは、端から見ると華やかな世界であるが、そこに身を置いている人にとっては、なかなかたいへんなのだろうと思う。しかも、マスコミや評論家が、ちょっとしたことをスキャンダラスに報道し、傷口を広げる役割を果たす。輪をかけてたいへんだと思う。ここまでさんざん批判してきたが、中川氏の失地回復を図る材料もある。それは、随所で、「ここはこのように言われているが、それはある立場から見ればのことであって、別の立場から見れば、そのようには見えないかもしれない」といった書き方をしていることである。そのような記述には、評論家としてなるべく偏らない立ち位置の取り方を考えておられると推察され、好感が持てた。
 ともかく、この本で、音楽界の人々のネットワークがどのようなものであるかを概観することができた。私が翻訳したリントン・フリーマンの『社会ネットワーク分析の発展』も、ネットワークの研究者たちが、大学を移動しながら、空きポストに次の人が入り、そして知が継承・発展されていく過程が描かれている。この本は10大オーケストラの紹介が本来の目的なのだろうが、結果的に、私には音楽界のネットワークの記述のように感じられた。いろいろなライバル間の確執や権力闘争も、きちんとネットワーク分析してみると、説明がつくところもあるのではないかと思う。そうすれば、歴史(特に戦争)だけが個性を育むといった解釈とは違ったものが生まれてくる可能性があるのではないかと感じられた。
 500ページも読んだのである。まだ書きたいことは山のようにあるのだが、仕事に戻らなければならないので、とりあえず、このへんで一度終了。もう午前1時だが、もう一仕事するとしよう。今日はこのまま徹夜かな...苦笑。お気楽な仕事です。
 9月4日から7日まで、サイトウ・キネン・フェスティバルにて、「文化的イベントの心理・社会的影響に関する調査」のオーディエンス調査を行っています。4日連続で、コンサートが始まる前にアンケートを配布しています。プロジェクトに関わるメンバーだけでは心許ないので、NPO法人SCOPの助けを借りて、信大の学生さんたちを動員してもらっています。
 最初は、どのくらいアンケートを受け取ってもらえるだろうかと心配していましたが、思った以上に受け取っていただいているようです。オーディエンスの皆様に感謝申し上げたいと思います。快く受け取っていただいた方、ぜひ最後までご協力いただき、ご回答を返送していただけますようお願い申し上げます。
 初日の配布が終わった後、誤りではないのですが、ちょっとした問題点を発見し、3日目(9月6日)からそれに対応しました。もし、9月4日と5日にアンケートを受け取られた方で、このページをご覧になった方は、このリンク先の「オーディエンス調査(サイトウ・キネン・フェスティバル)にかかわる質問」のQ5をご覧下さい。他にも上記リンク先には、「よくある質問」を集めてあります。
 何日も配布していると、2度目・3度目という方も出てきます。「昨日いただきました」などと言っていただけると、配っている者の励みになりますし、また、このフェスティバルが、連日盛況である理由もわかる気がします。これからも私たちなりにフェスティバルを支えていけるように、ちゃんと分析をやりたいと思います。どんな結果が出てくるのか、楽しみです。
 ややミーハーなことを言うと、今日は超有名政治家夫妻をかなり間近でお見かけしました。女性の側は、テレビで見るよりもお茶目そうで、確かに魅力がありそうな雰囲気をお持ちでした。男性側はそつなくエスコートという感じでしょうか。そのあたりは、テレビで見るとおりだなと思いました。

 少し追記をしておきます。この調査に関心を持ってくださる方が結構いらっしゃるようです。ボランティア関係の方、市会議員の方、ホールの関係者の方、などなど、配布している最中に、いろいろな方からお声をかけていただきました。だいたい共通しておっしゃることは、「これまでこういう調査はなかった」ということです。私もそう思います。これまで、コンサートをはじめ文化的イベントには、あまりきちんとした評価をしてこなかったのではないでしょうか。
 一般論としてですが、コンサートに行くと、プログラムに簡単なアンケート用紙が挟んであることが多いです。しかしながら、私はそういうものを目にするたびに、「これでどれほどのことがわかるのだろうか」と思っていました。「どこから来ましたか」「どの曲がよかったですか」というようなものが多いですが、遠いところから来るお客さんは市内に泊まってくれると仮定すると(多少)経済効果が計算できる、どういう曲を好む客層かがわかるので選曲の参考にする、といった使われ方をしていると思われますが、オーディエンスは「どんなこと」に「どのくらい」満足しているのだろうか、ということについては、ほとんどわからないですし、そこでどのような「社交」が繰り広げられているのかなど全くわかりません。まして、そのコンサートを離れたところで、そのオーディエンスは他の文化的活動にどのように関わっているのかなどわかるはずもありません。
 この調査は、そういった今までわからなかったことのうち、その一部を少しずつ明らかにしていこうとする側面があります。これは、おそらく、文化的イベントの関係者の方々が常日頃疑問に思っていたことを少しでも明らかにすることになるのだと思いますし、だからこそ、期待をかけてくださるのだろうと思います。私自身の関心は、少し違うところにあるのですが、多くのところで質問内容は重複しますので、質問紙をご覧になった関係者の方々に関心を持ってもらえたのだろうと思います。ともあれ、分析が終わり次第、「是非報告してください」というご期待に添えるようにしたいと思います。
 昨日(9月2日),長野県内の6市町村の一般の住民の方1800人(300人×6市町村)を対象とした「文化的イベントの心理・社会的調査」を送り出しました.これはわれわれのプロジェクトで行う3つの主な調査のうちの1つです.(他には,イベントのボランティアやオーディエンスを対象とした調査も行います.)アンケート用紙が届いた方,ご協力のほどよろしくお願いいたします.
 若干裏話をしますと,1800通の準備をするのは心身ともにたいへんな作業でした.われわれプロジェクト・メンバーやお手伝いをしてくれる学生たちが数日間格闘しました.いつも大規模調査の準備が終わると,放心状態になってしまいます.今回も例に漏れずそんな感じでした.この調査をやって,どんなことがわかるだろうか,仮説は思ったとおりに支持されるだろうか,等々,期待と不安に突き動かされつつ準備をします.ただ,いつもと同じだけど少し違うと感じたのは,次のようなことです.いつもと同じなのは,アンケート用紙を綴じたり,切手を貼ったりしながら,事前にインタビューをしてきた人々の顔が次々と思い浮かんできたことです.(私の場合,最近は,アンケート調査を始める前に,関係するいろいろな方々にインタビューをしてからというのが慣例となっています.理論と現実をうまく接合するための工夫です.)今回の場合は,イベントのボランティアの方々などの生き生きとした顔が浮かびました.一方,これまで数年は,中越地震の被災地の方々を対象にして調査をしていたのですが(その成果としては,『社会学研究』に掲載された論文などがあります),そのときには,インタビューをした被災者の方々の復旧・復興へ向けての懸命の顔が次々と浮かんできました.この違いは,準備をするときの私の心持ちを随分と違ったものにしていたように思います,無理を承知で簡単に言ってしまえば,負の状態からゼロの状態を目指す人々と,ゼロからどれだけ正のものを生み出せるかを目指す人々の違いとでも言うのでしょうか.中越での被災者の方々もイベントのボランティアの方々も,前向きに努力する人々という点では同じですが,今回は,重苦しい気持ちにならなかった点が違っていました.準備が終わったときに感じた爽快感も,これまでとはかなり違っていたように思います.
 これからは,プロジェクトの他の調査の準備と,調査の回収に追われる日々がやってきます.調査にはこれからもまだ一山も二山もあるのですが,1800通を出し終えて,とりあえず,ここらで一息といった感じです.

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