2009年12月アーカイブ

まずはともあれ、この↓写真である。

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これ、なんだと思います? 信濃毎日新聞(信毎)の読者に配布された来年の手帳みたいなものである。「みたいな」というのは、ちょっと意地悪な言い方をわざとしようとしているので、そう書いたのである。

さて、この記事に合わせて新コーナー(新カテゴリ)を作りました。「へんなもの見つけた」です。
日頃見つけたへんなものを紹介していこうというコーナーです。類似のカテゴリに「とんでも科学」があるのですが、最近時間がなくて、あまり新聞記事に目を通す間がありません。そういうわけで、もう少し楽に書けるものということでこのコーナーを作りました。今後ともごひいきに。

さて、この手帳みたいなものの何がへんなのかわかるでしょうか。それはその「memory」という英語であります。私はこれが新聞受けに入っていたのを発見して、一瞬、「今年亡くなった人一覧」かと思いました。何てへんなものを配るのかと。そしておそるおそる中身を見たら、「え、て、手帳かいな?」となったわけでございます。
日本人の英語というのは、本当に困ったもので、私は常日頃、店の看板やウェブサイトなど、さまざまなところで、ずっこけるのです。一応、私、留学しましてアメリカで学位を取っていますので、英語学の専門家ほどではありませんが、それなりに英語はわかるつもりでいます。
で、この場合ですが、手帳の表紙としては、「Diary」か「appointment」くらいですかね。信毎の人たちのやりとりが目に見えるようです。

部下:そろそろ来年の手帳を準備しないといけませんね。
上司:そうだな。かっこいいのをつくろうぜ。タイトルは英語にしよ。
部下:はー、わかりました。 [部下しばらく辞書を調べる。] カチョー、これでよいでしょうか。
上司:ん、「Diary」? 君ねー、これじゃあ「日記」じゃないか。
部下:えー、そうですかぁ、辞書にはそう書いてあったんだけどなー。
上司:ほれ、じゃあ、何か覚え書きというような感じなので「Memory」でどうだ。「忘れるな!」って感じでいいじゃないか。
部下:はー。[すごすご引き下がる。]

うー、泣けるじゃないですか。部下さん、せっかく辞書引いたのにねー。
こうやって日本語英語が生まれてくるのかと思います。
「Diary」でいいんです。手帳はDiaryでいいんです。
一方、Memoryにはいろいろ意味がありますが、私がこの写真のようなものを見て思ったのは、真ん中の大きな余白(余緑?)部分に遺影でも貼ってくださいということか、ということでした。アメリカではよく見るのですが、たとえば学校の先生が若くしてなくなったりすると、遺影の上とか下に「Memory」って書いて飾るんです。これを見て、私にはその様子が喚起され、「何ちゅう、趣味悪いもん配んねん」と思ったわけでした。
いや、ともあれ、この手帳みたいたなもの、シュールすぎて、私には使えません。来年はよい年になりますように。チーン!
 そろそろ,来年度の授業について考える時期がやってきた.
 例年のことではあるが,自由度が大きい科目については,私はいつも大いに悩むのである.もちろん,ほぼ定型が決まっている自由度の小さい科目もあるので,それは一度作ってしまえば,反省をもとにして少しずつ改善する程度なので,あまり悩む余地はない.
 自由度が大きい科目とは,抽象的な科目名だけがあって,中身は何でもどうぞという感じの科目である.あれも教えたい,これも教えたい,それを教えておいた方がよいのではないか,と積極的に思う一方,それだけのことをやろうと思ったら毎週の準備が追いつかないのではないか,学生が関心を持たないのではないか(受講者が少ないのはさびしい...多くの人に聴いてもらいたい),私自身にそれを教える力量が不足しているのではないか,と思いとどまらせる反作用もある.
 前任者のWさんから引き継いだことも,十分に汲まなければならない.私はシステムを新しくするのは好きだが,朝令暮改にはしたくない.今あるシステムを有効に活用するにはどうすればよいかを考えるのがよいのだと思う.具体的には,悩みは次の3科目である.

  • 「社会分析論」
  • 「経験社会学基礎」
  • 「現代社会論演習」
 このうち,「社会分析論」については,Wさんからは,講義科目で,テーマは自由(理論でも実証でもOK,半期×2年分)と言われている.そこで,2年間のローテーションにしてしまおうかと考えている.受講者は2,3年生であり,ちょうど科目名に付される数字も1と2であるから,「理論構築法」が1年,「信頼と社会関係資本論」が1年といった感じで回せばよいのではないかと.「理論構築法」については固定だが,もう1年については,自由度はあるものの今のところはこれかなという気がしている.この科目については,2,3年次で2年連続で取ってもらえれば,「続社会学概論」といった位置づけにすることができるので,私のもとで卒論を書いていく人たちに是非とも知っておいてもらいたいことにすれば都合がよい.
 「経験社会学基礎」は,1を村山先生が担当され,2以降を私が各年度1つ担当することになっている.村山先生の1の内容は固定されているが,私の担当する分は自由度が高い.しかも,Wさんからは,調査手法や分析法に関する講義で,調査士科目以外を念頭に置いている(ブール代数・時系列・ネットワーク分析.計量モノグラフも可.)という,いささか高い目標が示されている.ここで考えどころは,大学院向けの科目ではないということと,卒論に向けて学生が使える可能性のある技法を提示することにあると思っている.大学院科目ではないので,共分散構造分析は外す(というか,個人的なフィロソフィーに合わないので教えたくない).一応2年生から取れる科目ではあるが,目標が高いので実質的に3年生以上を対象とすることでよい....今年は,「社会ネットワーク分析」にしたが,受講生は想定に反して2年生が中心だった.来年度は社会学関係科目の時間割の配置を変更するつもりなので,実質3年生以上の科目になると予想される.
 で,どういう内容にするかである.思い切って「複雑系と社会シミュレーション」あたりに行ってみるかと思っているのだが,学生にプログラミングを教えることがどの程度可能だろうか(私としても手探りなので,どれだけの成果があげられるのかよくわからない).大学の端末には,MapleとMatlabが入っているが,私自身が使ったことがないので,どの程度難しいのかよくわからない.ちなみに私は,数学ソフトとしてはMathematicaを,プログラミング言語としてはBasicとC++を少しかじっている(ある本には,私がC++を自習し始めて最初に書いたプログラムであるPermNetが紹介されていたりする.おいおい,まだそんな開発途上なものを載せていいのかよって感じである).artisoc(KK-MAS)SOARSくらいなら何とかなるのか(私自身が触ったことがないが,易しめであるように思われるし,後者の場合,いざとなれば知人にヘルプをお願いすることもできるかも? ちょっと触ってみるかな...).トピックとしては進化ゲームとかネットワーク生成といったことを入れられると思うし,私自身も,近年サボりがちの本業(実は,うちの研究室の学生たちは,私が数理社会学者であることをたぶん知らない...苦笑)を忘れずにいることができるかもしれない.
 あるいは,......今のところ,それ以外の選択肢があまり思いつかない.2年生に「来年,何してほしい?」と訊いても,科目の内容は先生が決めるものだと端から思っているようで,返事が返ってこない.よいアイディアがあれば採用するかもしれないのになと.うちの学生もこのブログを見ているようなので,言っておこうと思うが,このままだと,シミュレーションになっちゃうよと.いいのかなと.来年度の3年生には力任せに取らせるつもりなので,取らなきゃいいは通用しないよと.何か私から習いたいと思うことがあれば言ってねと.
 「現代社会論演習」は,半期のゼミ形式の授業である.Wさんからは,「カレント・トピックスという感じ...基礎的かつ重要なものは含めない方がよいかも」と言われている.今のところは,「文化的活動と市民社会」ってな感じにしようかなと思っている.これは,今年の「文化的イベント」にかかわる調査の延長線上のつもりだが,別にイベントである必要性はないと思う.また,今年の調査はどちらかといえば個人に焦点を当てていたが,市民社会への影響とかいうあたりを考えてみてはどうかと思うのである.最低限,今年取りためたデータの再分析はできそうだし,インタビューも可能だろうと思う.
 ちなみに,共通教育(いわゆる教養)での1年生向きの授業としては,今年は演習形式で「『幸福』ゼミ」をやったが,来年は「震災と社会:中越地震からみる社会学入門」という講義をする予定で,タイトルをすでに出してしまった.実は研究室の学生からあるアイディアを授かってそのつもりでいたのだが,土壇場になって考え直した.震災にかかわる講義は一度はやらないと社会に成果を還元できないと考えて,このようにした.この講義も来年度限りかもしれない.中越地震については,本を書きたいと思いながら書けていないので,この講義をもとに書ければ書いていきたいとも思っている.だけど,忙しすぎだなという気が最初からしている.
 大学院は,「経験社会学研究」という授業があるが,計量系という縛りがあるので,SmallのUnanticipated Gainsでも講読するかなと思ったりしている.英書講読系の社会科学系の授業がなさそうでもあるので,そういう意味でもよいかなと思っている.

 まだ構想途中だが,大学のセンセーも結構たいへんなのである.たぶんイメージ的には,大学の先生って好きな研究をやって好きなことをテキトーに教えていると思われがちだが,少なくとも私の場合には,好きなことはある程度やっているけれども,好きなことばかりを教えているわけではない.教えなければならないことが何かを考えて,自分が不得手にしているところ,目配りが足りないところ,研究ができていないところなどを頑張って補うようにもする.補わなければならない部分が大きいと,それは無理があるからということで,できない授業はしないという選択をせざるをえないときもある.とにかく授業計画は悩みに悩む.
 何十人も教員のいる社会学部と違って,うちの社会学分野は2人できりもりしている.2人でできることは限られており,その中で最大限の教育効果を出すにはどうすればよいかを考えなければならないという,より根本的な問題もある.なので,第一義的には,好きなことを教えればよいということにはならないのだ.好きなことを織り込みつつ,教えるべきことを教えるという感じである.
 実は,うちの学生たちが,そういう教員側の苦心を全く知らないために,授業を取らないとか,途中でやめてしまうといったことが時折発生する.基本的には,社会学分野の学生には,社会学関係の取りうる授業は取れと指導しているのだが,なかなか理解されないと感じるところがある.ともかく,学生たちには,先生は,いろいろと考えているんだよということを伝えたいと思う.
 これまでさんざん避けてきたSPSSという統計ソフトを、ついに使わざるをえなくなった。前任校でも信大でもSPSSが導入されていたので、それを教えてはきたが、自分では普段はSPSSは使いたくないので使ってこなかった。主な理由は、GUI画面での操作感がひどいことと、私が思うにあまり標準的ではない独特の語句が使われていること、アウトプットの出し方がが気に入らないなどである。
 GUI画面の操作感について。たとえば分散分析。1元配置の分散分析のインターフェイスと、1変量の一般線型モデルのインターフェイスはかなり違う。それらのインターフェイスにいくつか出てくる「因子」の種類については、使うたびごとに「これっていったい何だったっけ」といつも思う。奇妙なネーミングに困惑するのである。しかも、「分析」メニューから、「1元配置分散分析」に行くには「平均の比較」から入ることになり、「1変量」の「一般線型モデル」に行くには「一般線型モデル」から入る。さらには、重回帰分析をしようと思ったら「回帰」から「線形」を選ばなければならない。非常に直感に反する。どれも「線型モデル」なのにな、と。何か使い勝手が悪いのである。また、アウトプットも表がいくつも出てくるのだが、SASみたいに、テキスト形式で出てきてくれると加工がしやすいのにと思う。

 いろいろな人から、確かにGUI画面はひどいけど、シンタックスを覚えるとよいですよと、言われてきた。シンタックスとは、要はコマンドである。自分でコマンドをタイプして実行するのである。実際、私の身近な人たちもシンタックスを使っているようである。そして、私もとうとうSPSSのシンタックスを使わざるをえない状況に追い込まれた。研究室をあげて行っている青木村調査において今年収集したデータの論理チェックを行うことになったのである。学生には、「このような形で論理チェックをするのですよ」と範例を示さなければならないので、どうしてもSPSS上で処理をしなければならなくなったのである。こうして、私の格闘が始まったのである。
 これまでも、断片的にはシンタックスについて教えてきた。こと、信大に来てからは学生のレベルが高いこともあって、学部生にシンタックスを書けというのは簡単なことである。多少の格闘過程を経て、多くの学生がある程度のシンタックスを書けるようになり、卒論の分析などでは、自ら進んでシンタックスを書くようになっている。
 しかし、自分自身は、これまでSPSSのシンタックスを避けてきた。断片的ながら、SPSSのシンタックスはひどいという思いがあったからである。その端的な例がrecode文である。これは、冗談かと笑ってしまうほど滑稽である。たとえば、

recode q1 (1=4) (2=3) (3=2) (4=1).
といった文である。これの意味は、q1という変数があって、1が「そう思う」、4が「そう思わない」の4段階スケールになっているとしよう。そのとき、直感的は、1が「そう思わない」、4が「そう思う」とした方がすっきりすることが多い。上の文は、1を4に、2を3に...置き換えなさい、という意味であり、一応、直感に合わせた形にすることができる。しかし、何だこの妙ちきりんなコードは。もう笑うしかない。「1=4」ってか。小学校1年生が見たら、「先生! 変なことを教えないでください」と言われそうである。ともかく、絶対に教えたくないし、絶対に使いたくない。
 少し細かいことを言えば、コードの末尾には「.(ピリオド)」を打つのだが、これが笑える。いや、ふつう、プログラミング言語なら、標準は「;(セミコロン)」くらいでしょう。本当に、文末に「。」をつけるような感じである。
 それから、条件文で使う「=」と変数への数値の割り当てで使う「=」は、両方とも「=」というのも、私としてはいかがなものかと思う。Basic言語レベルである。やっぱり、個人的には、条件文の方は「==(イコール2つ)」であってほしいと思う。まあ、このへんは、SASでも同じなのだけど。

 さて、私の論理チェック作業が始まった。やはり、ひどいと思うことがいろいろと出てきたが、中でも相当頭にきたのが、欠損値処理の仕方が面倒であるという点である。とりあえず、わざわざこのブログを見に来てくれた人のために、多少とも情報価値のあることを提供できるとすれば、次のことには注意である。
 たとえば、次のような状況を考える。入力時に、自由記述欄には、記入があれば1をなければ0を書けと指示したにもかかわらず、学生たちが、記入がない場合に何も入力しなかったため、欠損値になってしまったといった状況である。(ちなみに、私は、以前なら学生たちを叱り飛ばしていたかと思うが、今はこの程度ではめげなくなっている。人間、諦めが肝心である。)この欠損値部分に0を割り当て直すという作業は、たとえば次のようになる。ただし、ここでは、もとの変数の上に上書きせずに、別変数を作るようにしている。

/*on q24*/
compute q24_1 = 0.
if (q24 = 1) q24_1=q24.
しかし、当初私は、以下のように書いたのだが、反応してくれなかった。(私には、「compute」などという奇妙なコマンドが必要なのもどうかと思う。昔のBasic言語の「Let」と比べてもはるかにひどいと思う。なぜ数値を割り当てるくらいの操作がcomputeなのか。私としては、次のコードの方が直感的にわかりやすいと思う。)

/*on q24*/
compute q24_1 = q24.
if (q24 = $sysmis) q24_1=0.
しかし、これが何の反応もなかったのである。しかし、当然のことながら、「q24 = $sysmis」の$sysmisの代わりに、具体的な数値を入れると、きちんと思ったように反応してくれる。欠損値だろうが実数値だろうが、同じように書けてくれないと困る。
ともかく、欠損値が扱いにくい。
これまで、SASで

   select;
    when (living=.) livingg=.;
    when (living<10) livingg=0;
    when (10<=living<20) livingg=10;
 ......[中略]

    when (70<=living<80) livingg=70;
    otherwise;
   end;
といった式を書いてきたのだ(上式で「.」が欠損値を表す)が、こういった直感的な扱いができないのは非常に面倒である。
ともあれ、これまで、いくつかのプログラミング言語(Basic, C++)やMathematicaにふれてきたが、SPSSのシンタックスは、かなりひどい部類に入るという印象である。まともにやる気になれない代物である。
 別にSASマンセーでもないのだが(というか、初期導入費用が高すぎて導入できない)、SPSSの使い勝手はGUIもシンタックスも、私にとっては最悪の部類だと思う。本当に耐え難いと言うほかない。
 これまで、GUIでの操作よりもシンタックスを書く方が、意味もわからずに何かしらやったら何かしら出てきた的なことがないだけマシな教育法であると思っていたが、こんなシンタックスを覚えさせてよいのかという問題も感じ始めた。ともかく、私とSPSSの相性問題は、ますます深刻になっていると言わざるをえない。
 あれから半年。今日12月5日、第83回に引き続き、第84回の松本公演に行ってきました。うちの研究室のObのMさんの最後の雄姿を見に行ってあげないと、ということで行ってきました。
 でも、いきなり遅れてしまいました。雨が降っていることに気づかず、雨合羽を探していたら遅くなってしまいました。最初の「魔弾の射手」はロビーで聴くことになってしまいました。天気予報を全く見ていなかったです。前日まで2日連続で大学に泊まりで仕事をしていて、天気にまで注意が向いていない状態でした。
 ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」から聴き始めました。場所は、会場全体の中央付近から、やや後ろより、ステージに向かって左よりあたりでした。場所としてはよい席でした。
 ラフマニノフについて言えば、ラフマニノフ自身はあまりオーケストレーションがうまくありません。なので音が薄いです。私は、聴く前から、そこのところを心配していました。前回の演奏会では、オケの弦の薄さとピッチが気になっていました。弱奏部でピッチがおかしいとかなり痛くなってしまう可能性があるんじゃないかとか、弦が薄いとメランコリック感が出ないのではないかと心配しつつ聴き始めました。しかし、弦の人数が結構いたので、薄さはかなりカバーできていたようで、思った以上にメランコリック感も出ていたように思いました。変な言い方ですが、初心者もいるであろう学生オケですが、その不器用な感じが、ラフマニノフのメランコリックさに独特の味付けになっており、これがよい感じを出していたようにも思われました。多少残念だったのは、ホールの音響のせいか、あるいは、オーケストラが厚すぎたからかわかりませんが、ピアノの音がオーケストラにかき消されてしまうところが多々あり、ピアノの細かいフレージングが聞こえなくなるところがありました。さて、ピアノのアンドレイ・イエーメツは、この曲をさらっと弾いてしまいました。灰汁がなさ過ぎて「えっ、スルーかよ」という感じがするところもありましたが、技巧的には崩れることはありませんでした。ところで、私は、半年ほど前に、何年か前に録音された辻井伸行と佐渡裕の同曲のCDを聴いてがっかりしました。技巧だけでメランコリック感が全くないラフマニノフは、クリープを入れないコーヒーどころの話じゃありません。やっぱり、この曲は、色気を要するのだと再認識した次第ですが、この点について言えば、さらっとしているとはいえ、20代半ばのイエーメツの方がしっかりと恋の経験をもっているようでした。彼が30代半ばになったら、第3番も聴いてみたいかもと思いました。ともあれ、全体としてはまとまっており、特に第1楽章の中盤あたりは、ピアノとオーケストラの一体感があって、なかなか聴き応えのある音楽になっていました。
第1部のアンコールでは、イエーメツがショパンの「英雄ポロネーズ」を披露しました。ここでもやはり、技巧的にはしっかりしているが、さらっとしている感じが印象的でした。全く泥臭くならない。このようなリズムがあり、強奏もある曲なのにさらっとしている。「ああ、こういうことを是としているピアニストなのかもしれない」と思いました。あと20年経ったら、彼のポロネーズ第7番も聴いてみたいかも。
休憩時間には、Mさんを応援に来ていた社会学研究室の学生数名と会って少し話をしました。

さて、次はチャイコフスキーの「交響曲第5番」です。この曲は、私にとって相当思い入れのある曲で、5月にはそのことについてブログ記事を書いたりしていました。以前のブログに書いたとおりで、この曲は、私が生まれて初めてコンサートに行き、そこで第2楽章のホルンのメロディに心を打たれ、当時の憧れだった同じ吹奏楽部の女の子に、その第2楽章を吹奏楽に編曲して贈った曲でした。また、高校のときには、宝塚市の吹奏楽団で、この曲の第4楽章だけ演奏しました。そんなわけで、中学校のときにスコアを買って若い頭で読み込んでいますので、楽譜は相当細かいところまで頭に入っています。
このように、自分の中にいろいろと蓄積されたものがあるこの曲を、実際に生演奏で聴くと、自分がどんな反応をするのかが楽しみなような怖いような気がしていました。演奏が始まると、実際、頭の中で楽譜が動き出し、それが指先に伝わって、一緒にピアノで演奏しているような状態になってしまいました。控えめにしていたつもりですが、周りの人たちには、かなりキモかったかもしれません。周りの人たちごめんなさい。目は半分つむったままで、時々アインザッツを合わせるところでステージに目をやるというような感じでした。
演奏はといえば、よかったです。そりゃまあ、プロと比べてはいけませんが、オーケストラが、自分たちの曲にしていたという感じがありました。たぶん、この曲は、どのパートの人にとっても、やってみたい曲だと思うので、すごく熱心に練習できる曲だとは思うのです。また、チャイコフスキーは、オーケストレーションがうまいですし、適度な毒もあるので、演奏に没頭できるのだと思います。いろいろな要因があると思いますが、ともかく、細かいことを言わなければ、ちゃんと曲になっていました。しかも、低音に思いの外厚みがあって、サウンド的にはベルリン・フィル的な音づくりを目指しているのかなと思いました。
細かいところを指摘するとすれば...、第2楽章のホルンは、最初の音を外してしまったのはやはり緊張感に勝てなかったのかと思いますが、それ以降は、学生としてはおよそ及第点ではないでしょうか。あの優美なメロディを、しんどそうではありましたが、それなりの雰囲気をもって聴かせていたと思います。また、第4楽章のフィナーレは、指揮者の意向だと思いますが、金管楽器の鳴り方をコントロールして、ただガンガン鳴るだけではない抑制の利いた音づくりをしていたと思いました。金管の人たちは、もっと出したかったのでしょうけれども。指揮者に注文をつけるなら、ところどころであったかなり大げさなアゴーギクは、必要なかったのではないかと思いました。面白さよりも、曲の流れを損ねており、良質なパロディとは言えない気がしました。しかし、指揮者が学生の技量を把握していることもよくわかりました。第1楽章冒頭の「運命の動機」のテンポや、第2楽章冒頭のテンポは、やや速めに設定され、破綻が起きないように、しかし速すぎないように、うまいテンポ設定になっていました。また、同時に、あまり弱奏過ぎなくてもよいという指示があったのかもしれません。弱奏すぎると、管楽器のソリストが緊張しすぎて入りにくくなるからです。そのあたりは配慮されているなあと思いました。しかし、私的には、特に第2楽章冒頭の弦の2分音符の音量は、ちょっと大きすぎかなと思いました。そのあたりは、痛し痒しかなと。
しかし、全体として、よく練習し、よくコントロールされていると思いました。これだけできれば、聴いている側としては大満足でしたし、演奏している団員の人たちも満足度は高かったのではないでしょうか。
アンコールは、レスギンカ! 剣の舞ではなく、レスギンカ...笑 「いやー、おじさんにとっては、これ、懐かしいわー。」 この曲、私が中学生の頃は、吹奏楽コンクールの定番曲の一つでしたが、最近、めっきり聴かなくなった曲ですね。チャイコフスキーの第4楽章に完全燃焼し切れていなかった金管楽器が、ふっきれてめいっぱい吹いている姿に、笑いが止まりませんでした(もちろん、心の中での笑いです。本当に笑っていたら、キショイので)。コンクールで中学生がやると、ホルンが結構一番上の音を外すのですが、あれだけ吹きまくったら、外すこともないですね。
おじさんとしては、レスギンカでもう満足してしまい、その次はもうおなかいっぱい。うるさいばかりで、どうでもよかったです。

終演後、ロビーでObのMさんと、研究室一同で少し歓談しました。学生たちはプレゼントを用意していて、やっぱり、この研究室は、よい研究室であると思いました。その後、とあるレストランで、みんなとオムライスを(私はワインも)いただいて帰ってきました。
よい音楽とおいしいオムライス。そして、仲良しの研究室メンバー。心が幸せに満たされた数時間でした。

世は、民主党政権で、事業仕分け。「文化になんて金をかけるか」という姿勢がありありと見えますが、心が豊かにならない成長戦略っていったい...。そんなときこそ、学生オーケストラの存在意義が大いにあると思います。今日は、文化会館が超満員でした。学生だけでなく、老若男女、多くの人がいました。不景気で懐は寒い。松本市は気候も寒い。しかも今日は冷たい雨。そんな中、数百円でこれだけの演奏が聴けて心が満たされるのですから(しかも、私はMさんからチケットもらっているし...)。信大の、そして全国の学生オーケストラ、そしてアマチュア・オーケストラに、こんな時代だからこそ、さらに大きなエールを送りたいと思います。
今、信大人文学部では、今年入学した学生たちが、どの専門分野に進かを選ぶかを決める時期である。
昨年10月に着任して、まだ少ししか立っていないこの時期に、進路決定のための選考を行ったが、今年もその時期がやってきた。

信大の人文学部では、かなりしっかりとしたプロセスを経て進級先の分野が決まる仕組みになっている。合同クラス会で教員紹介および教員と交流を行う機会があり、その後、進級ガイダンスで各分野の教員から説明を受けるという仕組みである。分野によっては、さらに個別に説明会を開くところもある。そんなプロセスを経て、学生は希望票を出し、面接などを経て進級先が決まっていくのである。
実は、私にとっては、どういうわけか、合同クラス会での教員紹介と、進級ガイダンスでの説明が、一年のうちでももっとも緊張するのである。授業で緊張するということはないし、学会でも百戦錬磨のはずである(実際、学会での発表回数は、連名のものを含めると100を超えている)。しかし、である。どういうわけか、この2回だけは、ひどく緊張してしまうのである。
私にとっては、社会学の面白さを伝えてこられたかが問われる場面であると思っているからだと思う。...社会学は、心理学と比べると、不利な点がある。「大学生になったら、心理学を学びたい」という学生はかなり多いのだが、残念ながら、社会学を学びたいという学生は、それに比べればおそらく随分少ないと思う。放っておいても、ある程度希望者がある心理学系のコースがうらやましい...。さらに、信大人文学部には、文化情報論という独特のコースがあって、この関連分野を目指してくる学生もいるようである。このような強敵に取り囲まれ、私は、背水の陣・四面楚歌の気持ちでスピーチをせざるをえないのである。しかも、難点は、社会学という学問の定義を述べても理解されにくく、実質的にやっている内容が広範囲なのでピントが定まりにくいことである。合同クラス会ではものの1分、進級ガイダンスでも7分くらいの間にどんな話をすれば、社会学という学問が、また、社会学分野の雰囲気が伝わるだろうか。そしてまた、単に伝わるだけではなく、それを魅力的だと思ってもらえるだろうか。私が一生添い遂げると思えた社会学という学問の面白さを伝えられるだろうか。そんなふうに考えると、どうしようもなく緊張するのである。

私が大学のときにゼミを決めたのは、2年生の後半だった。あのとき、自分が何を考えていたのか、そしてまた、師匠とのやりとりなど、鮮明に覚えている。私は、社会学部だったので、先生たちの専門は社会学の中でかなり細分化されていた。私が師匠のゼミに入りたいと思った理由は、師匠が、私が1年生のときに担当された「社会学」(必修科目)の授業内容が、難しすぎてよくわからなかったからだった。しかし、周囲の学生たちの反応はすごくよくて、また、その1年生向けの概論の授業を、大学院生がわざわざ聴きに来るのだという話も聞いた。私は、このままでは終われないという、何となく悔しい気持ちから、師匠のゼミに行ってみようと思ったのであった。「あれ? 入学したときには、マスコミ系のゼミに行くつもりだったんじゃなかったっけ?」今から思えば変な学生であった。
ゼミの選択希望を提出するころ、私は、学食で昼食をとっておられた師匠をたまたま見かけた。私は何を思ったか、すーっと師匠に近づいて挨拶をしたのだった。「2回生の辻です。先生のゼミを志望しています。よろしくお願いします。...大学院に行くつもりです。...」 あれが、自分の今の専門を決めた瞬間だったと言ってよい。さすがに、「先生の話がわからなかったから」とは言わなかったと思うが、不思議な出会いだったと言ってよい。
ところで、理解できなかった「社会学」の授業だが、そのときに配布されたハンドアウトを、今まだ持っている。現在私は「社会学概論」を教える身だが、今になってわかる師匠の素晴らしさである。授業のネタに苦しくなると、師匠のネタをパクってしまおうかと思わず考えるほど、よく練られた内容である。

自分は、学生たちにとって、いつの日か、素晴らしかったと思ってもらえるような授業をしているだろうか、また、自分は人間としての魅力があるだろうか。結局それが志望者数を決めるような気がするのである。単なるウケのよい小手先の授業をやったり、表面的に装飾的で陳腐な人間に成り下がっていないだろうか。たぶん、そんな思いから、ふだん経験しない緊張を感じるのだと思う。もちろん、現在私の「社会学概論」を取ってくれていない学生に、「え? もしかして社会学って今までよく知らなかったけど、面白いのかも?」と思ってもらえるかどうかも必要である。何せ、これまで全く関心のなかった人もいるのだろうから。
私は、入学当初から社会学がよいと決めてくれている学生だけではなく、もっと多くの人に社会学に入ってきてもらいたいとも思っているのである。

私は、当分野の私の前任者のWさんを、もう20年ほども知っている。大学院は違ったが、修士課程1年生のときに研究会で出会い、それ以来の関係である。その彼が信大の社会学に着任し、研究会で出会うたびに、県内のさまざまなところで学生とともに調査をやっているということを聞かされていた。理想的な環境だなと、そのころからずっと思っていた。日本には、社会学部/社会学科/社会学専攻が数あれども、信大の社会学分野の環境は、とても素晴らしい。理念も明確でやっていることもぶれずに理に適っている。そして、彼が異動したあとに、私は何とうまい具合に彼の前職に収まることができたのである。そして、実際に着任してみると、思った以上にさらに素晴らしい環境であることがわかってきた。学生たちが勤勉で、また、研究室の学生たちが助け合い、鳩山首相に言われなくても(当時は麻生さんだったが)友愛の精神に満ちあふれているのである。それが、2,3年生が合同でやる調査によって育まれてきたものだと、だんだんわかってきた。
そんなわけで、私は、この理想的な学びの場を、1人でも多くの学生さんたちに体験してもらいたいという強い思いがある。教育の場として、また、人間関係形成の場として、本当に優れた環境なのである。
最初から社会学と決めて入学してくる学生はおそらくそれほど多くない(少なくとも心理学と比べると少ない)。しかし、少数にとどめていては、あまりにもったいないと思うのである。社会学の隣接領域の分野と迷っている人たちも、あるいは、本当は別の分野にと思っていた人たちにも入ってきてもらいたいと思うのである。
実際問題として、昨年私自身が選考に関わった現2年生についていえば、本当に大きく成長していることがわかる。昨年、選考時に提出してもらった希望票に書かれたものを、先日読み返してみた。「こんなのだったっけ?」 正直なところ幼くて笑ってしまうようなものだったが、同時に、「いやー、この子たち、本当によく成長したな」と思うと、ちょっとうるっと来た。また、2年生より3年生は、技能をもっているし、それ以上に4年生は貫禄がある。社会学分野の教育体制は、本当にしっかりと機能している。多くの学生さんたちに、この素晴らしい環境を活かしてもらいたいなと、強く思っている。

だから、進級ガイダンスなどの短時間に社会学分野の魅力をどうしたら最大限に伝えられるか、これまで社会学にとは考えていなかった学生さんたちにも来てみようと思ってもらえるか。それがふだんは感じない緊張を生んでいるのである。
1年生が希望票を出すまでもう少し。どれだけの人が希望を出してくれるか。祈るような気持ちで待つ数日間である。


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