ここ2年あまりの自分自身の激動のためか、オリンピックの見え方が違ってきている。
金・銀・銅とかいうことにこだわらなくなった。スポーツ選手ならば、誰しも全く怪我なく無傷でいられることはないのだろうということが実感として理解できるようになったからだ。スポーツにせよ学問にせよ、がんばってやるからこそ怪我をするのだということが実感できるようになったということだ。また、行きつけの店のマスターのところのボン2人(ともにかなりのレベルであったらしい)が、ともに大けがをして1人は競技続行を断念せざるをえなくなったとかいう話を聞いたということもある。メダリストというのは、怪我もしたのだろうけれども、打ち所がまだよかったとかいうような幸運もあるのだろうなと思うのである。もちろん、そもそもの身体能力が多少とも優れていたということはあるのだろうけれども。選手たち本人は多少ともメダルを目指してやるのだろうし、周囲も期待するのだろうけど、順位はともかくとして、それぞれの選手がそれぞれに努力してそこまでたどり着いた晴れ姿をみんな賞賛してあげればよいと思うのである。中には、怪我からの復活についてマスコミが特に取り上げる人物もいるのだが、それ以外の人が怪我をしなかったり、比較的に努力をしていないということではないのだと思う。
とはいっても、手放しでその理屈を全ての人々に適用しようとは思わない。「世界で一つだけの花」は、やはり嫌いである。不可抗力的な場合を除けば、無為にだらだら過ごしていている人に対して、花だと愛でる必要はない。
社会学者であるから、こういうときに「国家」というものの存在が気になるわけである。ナショナル・チームに選抜されるということになると、当然国家からの支援を多少ならずとも受けることになる。たとえば、各国の人口とメダル数の比が一定ではないことからしても、このことは見て取れる。応援が国家単位での応援となりがちなのは、ある意味では、応援する側が選手たちに対して、「お前ら国家から投資されているのだから、ちゃんとアウトプットを出せよ」と言っているのだとも読める。また、自国の選手が活躍すればするほど、それを応援する国民のナショナリズムを昂揚することになるかもしれない。それは「意図せざる結果」だ、などというのは白々しい。そういうものである。かつて、モスクワ・オリンピックのボイコットなどということがあったが、冷戦下でなくとも、スポーツは国家とそもそも切り離せない関係になっている。オリンピック選手ともなれば、選手1人1人の肩に国家の重しが乗っかっているのである。
また、オリンピック選手ともなれば、企業などの組織からふだんの活動の資金を援助してもらっているということもある。オリンピック選手にもなれば、国家からの援助だけでなく、企業・組織からの援助も受けていることが多い。これを排除してしまうと、選手育成はままならないことになるケースが多いだろう。スポーツはスポンサーである企業・組織と切り離せない関係になっている。オリンピック選手ともなれば、選手1人1人の肩に企業・組織の重しも乗っかっているのである。
そういった重しを全て取り除いてしまったとしたら... はたしてテレビに映っている面々の多くは残っているのだろうか。大いに疑問である。
あるブランドが好みなら、その企業が支援している選手を応援するということはありうるだろうか。先日、スピードスケートで2人の男子選手が入賞したとき、長野県内のスポンサー企業がテレビの前で応援している姿がNHKのローカル・ニュースでは映し出されていたが、全国放送では映されず、県外のその選手の出身地の小学校だか中学校が映っていた(少なくとも私の見た限りでは)。オリンピックでは、スポンサー企業の名前は封印され(特に日本以外の場合)、国家だけが前面に出てくる。オリンピックを見据えて国籍を変えるということもよくあることである。なぜ民間の支援は消され、国家という枠組みだけを残さないといけないのだろうか。
選手たちが、国家や企業の支援を受けてまで自分を伸ばそうとする意欲と努力は買いたい。しかし、それは、企業や国家を越えて、世界中、どの選手も同じではないだろうか。私はそう考えると、マスコミが、オリンピックやワールドカップなどになると、国家という枠をあまりにも強調しすぎるように思えてならない。他国の選手を応援することももっとあってよいのではないかと思う。グローバル時代のあり方として、自国選手ひいきの報道や応援の仕方をどのようにすべきか、もっと考えてもよいと思う。救いは、今コーチが国家を越えつつあるということである。それにしても、お金をどれだけ積まれたかといった事情もあるのかもしれないが、それはともかくとして、グローバル時代のあり方として1つの方向性を示唆しているように思える。
私がアメリカに留学していたころ、オリンピックの報道は、日本のそれと比べて、明らかに扱いが小さいように思えた。野球やバスケなどの「いつもの放送」が、だいたい普段どおり行われていた。扱いのギャップに驚いた。あれでは、オリンピックを通じてナショナリズムを昂揚するといったところまではいかないように思われた。明らかに日本の報道は、ナショナリズムの昂揚を過度に煽っているように感じられる。
蛇足だが、国家という枠組みを強調する一方で、政治関心は選挙の投票率の漸減傾向から見ても高くない。外枠だけ強調しても、その中身は今ひとつパッとしないのも気になるところだ。
金・銀・銅とかいうことにこだわらなくなった。スポーツ選手ならば、誰しも全く怪我なく無傷でいられることはないのだろうということが実感として理解できるようになったからだ。スポーツにせよ学問にせよ、がんばってやるからこそ怪我をするのだということが実感できるようになったということだ。また、行きつけの店のマスターのところのボン2人(ともにかなりのレベルであったらしい)が、ともに大けがをして1人は競技続行を断念せざるをえなくなったとかいう話を聞いたということもある。メダリストというのは、怪我もしたのだろうけれども、打ち所がまだよかったとかいうような幸運もあるのだろうなと思うのである。もちろん、そもそもの身体能力が多少とも優れていたということはあるのだろうけれども。選手たち本人は多少ともメダルを目指してやるのだろうし、周囲も期待するのだろうけど、順位はともかくとして、それぞれの選手がそれぞれに努力してそこまでたどり着いた晴れ姿をみんな賞賛してあげればよいと思うのである。中には、怪我からの復活についてマスコミが特に取り上げる人物もいるのだが、それ以外の人が怪我をしなかったり、比較的に努力をしていないということではないのだと思う。
とはいっても、手放しでその理屈を全ての人々に適用しようとは思わない。「世界で一つだけの花」は、やはり嫌いである。不可抗力的な場合を除けば、無為にだらだら過ごしていている人に対して、花だと愛でる必要はない。
社会学者であるから、こういうときに「国家」というものの存在が気になるわけである。ナショナル・チームに選抜されるということになると、当然国家からの支援を多少ならずとも受けることになる。たとえば、各国の人口とメダル数の比が一定ではないことからしても、このことは見て取れる。応援が国家単位での応援となりがちなのは、ある意味では、応援する側が選手たちに対して、「お前ら国家から投資されているのだから、ちゃんとアウトプットを出せよ」と言っているのだとも読める。また、自国の選手が活躍すればするほど、それを応援する国民のナショナリズムを昂揚することになるかもしれない。それは「意図せざる結果」だ、などというのは白々しい。そういうものである。かつて、モスクワ・オリンピックのボイコットなどということがあったが、冷戦下でなくとも、スポーツは国家とそもそも切り離せない関係になっている。オリンピック選手ともなれば、選手1人1人の肩に国家の重しが乗っかっているのである。
また、オリンピック選手ともなれば、企業などの組織からふだんの活動の資金を援助してもらっているということもある。オリンピック選手にもなれば、国家からの援助だけでなく、企業・組織からの援助も受けていることが多い。これを排除してしまうと、選手育成はままならないことになるケースが多いだろう。スポーツはスポンサーである企業・組織と切り離せない関係になっている。オリンピック選手ともなれば、選手1人1人の肩に企業・組織の重しも乗っかっているのである。
そういった重しを全て取り除いてしまったとしたら... はたしてテレビに映っている面々の多くは残っているのだろうか。大いに疑問である。
あるブランドが好みなら、その企業が支援している選手を応援するということはありうるだろうか。先日、スピードスケートで2人の男子選手が入賞したとき、長野県内のスポンサー企業がテレビの前で応援している姿がNHKのローカル・ニュースでは映し出されていたが、全国放送では映されず、県外のその選手の出身地の小学校だか中学校が映っていた(少なくとも私の見た限りでは)。オリンピックでは、スポンサー企業の名前は封印され(特に日本以外の場合)、国家だけが前面に出てくる。オリンピックを見据えて国籍を変えるということもよくあることである。なぜ民間の支援は消され、国家という枠組みだけを残さないといけないのだろうか。
選手たちが、国家や企業の支援を受けてまで自分を伸ばそうとする意欲と努力は買いたい。しかし、それは、企業や国家を越えて、世界中、どの選手も同じではないだろうか。私はそう考えると、マスコミが、オリンピックやワールドカップなどになると、国家という枠をあまりにも強調しすぎるように思えてならない。他国の選手を応援することももっとあってよいのではないかと思う。グローバル時代のあり方として、自国選手ひいきの報道や応援の仕方をどのようにすべきか、もっと考えてもよいと思う。救いは、今コーチが国家を越えつつあるということである。それにしても、お金をどれだけ積まれたかといった事情もあるのかもしれないが、それはともかくとして、グローバル時代のあり方として1つの方向性を示唆しているように思える。
私がアメリカに留学していたころ、オリンピックの報道は、日本のそれと比べて、明らかに扱いが小さいように思えた。野球やバスケなどの「いつもの放送」が、だいたい普段どおり行われていた。扱いのギャップに驚いた。あれでは、オリンピックを通じてナショナリズムを昂揚するといったところまではいかないように思われた。明らかに日本の報道は、ナショナリズムの昂揚を過度に煽っているように感じられる。
蛇足だが、国家という枠組みを強調する一方で、政治関心は選挙の投票率の漸減傾向から見ても高くない。外枠だけ強調しても、その中身は今ひとつパッとしないのも気になるところだ。
