ブルックナーという作曲家の伝記と若干のブルックナー論をまとめたのが本書である.
春休みごろのことだが,池袋のヤマハに行ったときに,本のコーナーに行ったら,3冊くらいブルックナーにかんするものがあり,そのうち読みやすそうなものと思って買ってみた.
私がブルックナーを知ったのはわりと最近である.クラシック音楽のCDを紹介する雑誌を見ていて,自分がこれまでよく知らない人のものを買ってみようと思って,交響曲第9番(ヴァント指揮,ベルリン)を買ってみたのが始まりだった.(たぶんだけど,吹奏楽出身の人は,ブルックナーをやった人というのはほとんどいないと思う.そこから入ると,存在すら知らなくてもおかしくないように思う.)最初に聴いたときから,あまりのすごさに戦慄が走った.オルガン的なサウンドで,特にホルンの使い方がすごい(19世紀末という時期なのに6本も使っている).対位法がうまい.数小節程度のフレーズがいくつか執拗に繰り返されるのだが,それが何度も同じ雑念が頭をよぎるような効果を生んでいて,普段の私自身の雑念のパターンとマッチするような気がして共感できる.
私はブルックナーと同時代人のブラームスの交響曲が好きになれないのだが,ブルックナーは私的には「はまれる」音楽である.
しかし,ライナーノーツの言っていることがよくわからないと思うところも多かった.よくわからない筆頭が,ブルックナーは「弱い」といった記述であり,続いて,交響曲にさまざまな版があるということだった.そのあたりについて,すっきりしたいという気持ちが強くなっていた.そんなわけで,本書を読んでみようと思ったわけである.
本書の構成は,
序言
1.ブルックナーの問題点
2.幼・少年期のブルックナー
3.若い学校教師
4.聖フローリアンでの十年
5.リンツ大聖堂のオルガン奏者
6.ウィーン音楽院の教授
7.音楽都市ウィーン
8.両派の争いの間で
9.敗北と成功,そして死
10.ブルックナーの交響曲の植物的な統一
11.形成 関連 特性
12.改訂のジレンマ
・年表 証言 作品表
・訳者のあとがき
となっている.全体としては,前半部分が伝記,後半10章以降がブルックナーにかんする音楽論といった感じである.
読み終えてすでにずいぶんと日が経っているので,伝記部分で印象的なことといえば,不正確だとは思うがまとめると,だいたい以下のとおりである.幼少期には教師になるべく育てられ,非常にくそまじめで融通の利かない感じの性格であったということ.当時は教師になるには教会音楽について知り,オルガンをある程度弾けないといけなかったということ.ただし,そのような音楽は,いわゆる芸術音楽とは方向性が違っていたということ.しかし,ブルックナーのオルガンの演奏技術は抜きんでており,即興演奏なども得意としていたこと.かなり年を食ってからウィーンに出たが,元来社交が苦手で,ワーグナーとブラームスとの抗争に巻き込まれ流されたこと.自分の作品に絶対の自信が持てず,批判をおそれ,人に相談したりしながら改稿を続けたこと,またそのために版がいくつかある作品があること.権力に対する考え方が偏っていて,学校にこだわり,ウィーン大学の教授となることを求め続け,ついに実現したこと.彼の音楽は,ウィーンにおいてよりも他の都市において認められたこと.といった感じである.
そんなところから,彼の音楽で随所にオルガン的な響きが作られるのは,やはりオルガン奏者という背景があるからだということがわかってきた.
ブルックナーの「弱さ」とは,芸術家に必要なある種の高慢さ(「お前らにはこのよさがわからんのか!」といった感じ)がなく,批評家の批判に応えて改訂を加えるといったことをやってきたことにあるのだということがわかってきた.
私の関心は伝記的なところよりも,むしろ音楽論にあった.どの交響曲も何となく同じような雰囲気を持っており,冗長とは言わないまでも長大である.こういったブルックナーの音楽を著者はどのように分析し解釈するのかに単純に興味があった.もう少しいうと,そういった分析や解釈というものが,どの程度科学的であるかということに興味があった.今まで音楽論というものにほとんど接したことがないので,ほとんど何の免疫も持っていない.あるのは社会学(数理的・計量的社会学)という他領域で培った能力であり,そういう観点から音楽論というものがどのように見えるか,ということに関心があった.
しかし,結論から言うと,やっぱり理解不能だった.何といっても10章のタイトルにもある「植物的統一」である.ひどい揶揄なのかもしれないが,「草食系男子」「肉食系女子」とかいう社会学的に見てクソなふざけた概念(もちろんそれは社会学の用語ではない)と比べて異なる水準にあるといえるかかということである.「植物的」とはいったい何なのか.関連する部分を本書から拾ってみると,「[ブルックナーの交響曲に]肯定的な見解の人々は,ここに「植物的な統一」とでも形容されるべきものを認める.それは[否定的な見解の人々がいうように]固定観念への永続的な関連ではなくて,一つの根本理念への永続的な関連と見るのである.」(p.206) 「ブルックナーの全交響曲の,その相互に結びつけられた関連は単純ではない.それらが秩序づけられている構造は,大きな相互関連の深さを持つ,閉じられた世界を示している.」(p.206) このあたりですでにお手上げなのだが,
1.固定的観念への永続的な関連ではない,
2.一つの根本理念への永続的な関連である.
3.交響曲が秩序づけられている構造は,深い相互関連を持っている閉じられた世界である.
私は日本語の理解が深くないことは認めざるをえない.自分には国語力がないので文学者にはなれないことも認める.しかし,1と2でいうところの「固定的観念」と「一つの根本理念」は,何か根本的に違うのだろうか.素人的に思うことを述べれば,前者はあくまでも個人的で多くの場合あまり価値のない思いこみみたいなものであり,後者は一般的で普遍的に価値のある考え方といったものだろう.そんな素人的な考え方が認められるのであれば(あくまでも仮定の話だが),問いたいのは,そういったものの違いを区別するものは何かということである.「お前のような無教養なものにわかるはずがない」と言われるかもしれないが,個人的にはそういった言い方は逃げ口上のように思われる.むしろ示してほしいのは,ブルックナーの交響曲のどういったところに「固定的観念」ではなく「一つの根本理念」が表出されているのかを示すことである.とりあえず,本書に具体的な記述はないと思われた.しかし,「引用個所にあるように,これは「全交響曲」において表出されているのであり,個別的にどこだということは言えない」と言われてしまうかもしれない.いやしかし,それはやっぱり逃げ口上なのではないだろうか.
また,統一感というものがブルックナーの交響曲全体に感じられることは,私にもわかる.それは,異なる交響曲間で同じフレーズが鳴っていたり,ブルックナー・リズムと言われる音型が随所で鳴ったりすることである.それはそれとして,こういった統一は,なぜ「植物的」と呼ばれなければならないのだろうか.「植物的」という言葉の明確な定義は示されていない.また,それと対義語になると思われる「動物的」といった表現についての言及や定義はない.結局,統一感があることは示せても,それが「植物的」と呼ばれなければならない理由は見いだせなかった.こんなことでよいのか.
さらに,「もし我々がブルックナーの交響曲の基本的な成長の法則を理解しようとするならば,その立証が試みられなくてはならない.ブルックナーの音楽における,いわば「原植物」を見い出すことが問題となる.」(p.209)しかし,「その立証にもし成功したとしても,それによって「植物的な統一」を極めて明白なものとして体験することが,だれにでもできるというわけではない」(p.210)という.卒倒しそうである.しかし,そんなに難しいことなのだろうか.グレーベが本書で示していることは,基本的にはパターンマッチングだと思う.おそらくパターンマッチングをするための基本となる音型など基本となる各種のパターンのことを「原植物」と呼んでいるのではないかと想像されるが,しかし,それによって「原植物」というものが発見できたとしても,「植物的な統一」を体験することが誰にでもできるわけではないとは,あまりにも人をバカにしている.なぜ,我々には「植物的な統一」を体験できる人と体験できない人がいるのだろうか.これには,いくつか解釈が可能であろう.
1.グレーベという人は「神」であり,我々に対して神託を与えている.神託は理解できない人,洞察できない人がいて当然である.逆に言うと,神の言うことを意味はわからずともひたすら信仰できるかどうかが重要である.
2.この後続くグレーベなりの「分析」は,数学を使ったかのような記述が続く.特に,2:3やら,6:9やらといった比を用いた「分析」らしきことをしている.「数の象徴的意義という問題を深く追求しない人,数の神秘から全く遠ざかっている人には,数が音楽の構造に極めて大きな意義をもっているということは,殆んど議論の対象とはならないであろう.しかし,かつてのフランドル地方の音楽やバッハに至るまでのバロック音楽は,建築学的な性格を持っていた.」(p.208)とあるように,多くの人々は数学が苦手である.数学のわかる人にしか「植物的な統一」は理解できない.数学の証明問題の中でも難しいものは,世界に数人しか理解できないものがあるという言説があるが,これはそれに似ている.
3.とにもかくにも無茶苦茶な論理であり,実際にグレーベの分析はひどい.わかる方がどうにかしている.
私の意見では,3が正しい.それを論証してみよう.
1.まず,神がいるかどうかは別にして,グレーベは神ではあるまい.ただひたすら信じよ,長いものに巻かれよというのは,非科学的態度にすぎる.別に科学的である必要はないと開き直るならば,それは人々にひたすら信仰を強制するファシストのようなものであると言えばよいか.いずれにせよ,1のようなものではないだろう.
2.「数」というものは重要かもしれないが,論じ方があまりにも稚拙である.ちなみに私は数理社会学者であり,多少とも数学や数理モデルになじみがある.私の目は数学者ほどではないにせよ,それなりのセンスがあるものと自負している.以下では,論理破綻している点について指摘したい.
ベートーヴェンとブルックナーのそれぞれ9つの交響曲について,その関連性を描いた図が示されている(p.206, p.208).しかし,その根拠ははなはだ心許ない.曰く「もし我々が,化学者が分子に対してするように,この結合の構造を象徴的に表すならば,それは次のようなものにちがいない.」といった程度である.ただグレーベ自身がそのように思った・感じたという以上の理由はないのである.こんなものは,数学でも何でもない.数に対するイメージを語っただけで単なるまやかしである.
「古典派の音楽にとっては,「二」が基本的な数である.「二」は一義的な対称性を持つ偶数であり,明白な一目瞭然とした性格を古典派音楽に与えている.」(p.209)「「三」という数字は,ブルックナーの全作品で,殆んどとらえきれないほどの重要な役割を果たしているのである.」(p.208)「「三」という数字はあまり合理的でなく,また同時に,一義的な対称性をもっていない.その構造はより複雑である.要するに基本的な数としては,「三」は音楽を複雑にし,背景のある奥行きの深い眺望を与える.その構造と経過に「三」という数が決定的に作用している音楽は,そしてさらに2:3という関係が公式として支配的である音楽は,「二」という数字が支配する音楽よりも,見通しはよくないかも知れないのである.」(p.209)「2:3という公式が,ブルックナーの交響曲のあらゆる層において作用していること,それが動機細胞のような小さな部分でも,ここの楽章の形式構造でも,そして終極的には全作品の包括的な輪郭においても,作用していることが証明されて初めて,我々は「ブルックナーの交響曲の植物的な統一」ということを,正当に語ることができるのである.」(p.209)という.
動機細胞という点からは,ブルックナー・リズムが2:3であることが論拠とされる.これはまあよいだろう.とりあえずこういったリズムが散見されるのは確かである.
楽章の形式構造という点については,交響曲第7番の第1楽章の提示部について,それが明白な実例として取り上げられているのだが,曰く「この提示部は三つのグループからなるものである.つまり第一のグループは,和声から生まれた間隔をおいた音からなる主要主題である.」(p.216)「第二のグループは,全音階的な線的なインパルスから生まれた第二主題であり,これには和声は,いわば単につけられているだけである.そして最後に,簡潔な第三のグループであるが,その「偉大さ」は超人的な距離感を表現している.」(p.216)このあたりになると,かなり怪しくなってくる.提示部の9小節が3つの部分に分かれ,それが以上のような関係性を持っているのだという.しかし,例はこれ1つである.論証としては1例をもって「他にもいろいろある」と言ってしまうのは無理がある.例を挙げるだけでは証明になどならないのだが,いずれにせよ,科学的分析とは言えない.もっと言えば,自説を根拠づけるのに都合のよい例だけを挙げるという態度も納得できない.科学者としてなら相当にまずいことをやっていることになる.
全作品の包括的な輪郭については,交響曲を2群に分けている.第1群が3,4,5,6,7,9番の6交響曲と,第2群が1,2,8番の3交響曲である.そして,この分かれ方により,6:9あるいは2:3の関係があるのだという.(これがなぜ2:1ではなく2:3と呼ばれなければならないのかも疑問である.ブルックナー・リズムは2:3と言ってもよいと思うが,この場合,第2群は実質的には1の大きさしかないわけで,合わせて3というのは,言い訳がましい気がする.ともあれ,)その根拠が第1楽章の主要主題である.第1群では,根音,3度,5度,オクターブといった音を強調しているが,第2群はそうではないというところに区別の根拠を求めている.これについては,確かにあまりにも明白な気もするのだが,しかし疑義はある.まず,群の分かれ方が規則的とは言い難い.各群の交響曲の番号の並び方に規則的な美しさは感じられない.ブルックナー自身が,いろいろなものを数える人だったというエピソードによって数への執着を強調しているようであるが,この美しくない分かれ方は,グレーベの論を弱めているように思われる.また,常識的に考えてみても,ブルックナーが当初から9つの交響曲を書こうと思っていたかどうか,また,生涯に書くことになるであろう交響曲に対して当初から何某かの計画性を持って取り組んでいたかとなると,それは相当に無理のある仮説ではないだろうか.かたやワーグナーとブラームスとの抗争や,必ずしも成功しなかった自曲のプロモーションという状況にあって,初心があったとしても,それを貫徹できるような状況にはなかったと思わざるをえない.それができるなら,彼を「弱い」と表現することは相当に無理があるだろう.「三」とか「2:3」といった「公式」について,それは「彼の無意識の深層から出て来て,彼の音楽の成長に作用したものと仮定してよいだろう.」(p.217)とあるが,無意識とか無意識の深層というのは,完全に説明を放棄しているとしか思えない.現在の科学の水準においては(本書の書かれた30年前においても),無意識などというものを説明として使うのはギャグでしかない.
以上から,解釈の2については,数にかんする理解があったとしても,理解できるものではないということができるだろう.このように3つの解釈可能性について考えてみたが,消去法的に考えると,3の「とにもかくにも無茶苦茶な論理であり,実際にグレーベの分析はひどい.わかる方がどうにかしている.」というものしか残らない.現代風にいえば,グレーベの分析とやらは「トンデモ」仮説にすぎないとしか言いようがないと思われる.
さて,そんなわけで,音楽論というものについて,私はかなり怪しいと思うようになってきた.こんなものをありがたがって奉じ奉る必要など全くない.グレーベという人がどれほどの権威のある人なのかどうかは知らないが,私には雰囲気でものを語る人という悪い印象しか残らなかった.
こういったところから,私が考えた音楽評論のあり方は,以下のとおりである.
1.音楽構造の分析は,パターンマッチング的な手法で行っているようである.それはそれでよい.しかし,印象論にとどまらないように,最も明白な例だけでなく,少なくともいくつか例を示すべきである.それにしても,立証とか証明といった強い言い方をするべきではない.我々にできることは解釈に過ぎない.
2.1人の作曲家について,そもそも科学的に分析することができるのだろうか.ブルックナー・リズムについては私はあまり問題ないと思う.そういうパターンがブルックナーのさまざまな交響曲で散見されるというのは,例がいくつでも取れるので,科学的分析の俎上に乗るだろう.ただし,ブルックナー・リズムが独特であるというためには,他の作曲家と比べてこれの使用頻度が極めて高いことを実証すべきである.しかしながら,1人の作曲家について,その生涯に書いた交響曲全体に対してパターンを見出したりする作業は,あくまでも解釈にとどまると考えるべきであろう.それは,全体として1例に過ぎないからである.1例ではそもそも科学になりえない.作曲家というものは,同じ作曲家が2度と現れないということからしても,物理学において何かを予見させる例が1つ見つかったというのとはわけが違う.再現が不可能であるからである.比較的に他の作曲家との違いを分析することは可能としても,1例のためにそれを「植物的」だの「動物的」だの言ってみても仕方ない.それは何らかのイメージを喚起するかもしれないが(私には全く意味不明のままだったが),他との比較をもとに端的なイメージを与えるものでなければ,そのイメージには意味がないだろう.また,「植物的」という意味はよくわからないにせよ,おそらく「動物的」といった言葉と対になるのであろうと思う.つまり「植物的」という言葉は,2元論的な分類を想起させるものであるわけだから,他にも植物的という範疇に分類されるような作曲家がありうるかもしれない.そうだとすれば,「植物的」という比喩は,全体を2つに分ける程度の意味しか持たず,したがって,ほとんど何も解明したことにならないように思われる.もっとも,ブルックナーの同時代までの作曲家たちが「植物的」という範疇に分類される者が誰もいなかったというなら話は別であるが....しかし,本書においてグレーベは,交響曲全体の包括的分析としてはベートーベンとの比較しかしていない(しかもその部分さえ印象論に過ぎず,成功しているとは言い難い).論証は極めて部分的であるという印象を持たざるをえない.そんなわけで,どんな作曲家についてであれ,その人,その作品の全体的な傾向にかんする分析は,科学的に行おうとするならば相対的にしか行われえない.数が重要などと,いかにも科学を装うやり方,しかも,数理社会学という多少なりとも数学にかかわる者からすれば,極めて粗っぽい「数学的」論証は,読者を煙に巻いているとしか思われず,このようなやり方は忌避されるべきであろう.数や数学を持ち出さないで,単なる解釈だというなら大目に見たい気もあるが,ほとんど似非数学としか呼べないものを科学的な装いのために利用することは,非専門家をバカにしている気もするし,実際,数理モデルを扱う者を納得させるものではない.
全体的な感想としては,音楽評論家全体としてはどうか知らないが,一部には知ったかぶりをするような人がいるということであった.それでも少し救いの手をさしのべるとすれば,これは音楽評論に限ったことではなく,どの世界にもいるものである.私も日本社会学会だったかでひどい発表を聞いたことがある.詳細は忘れたが,社会の類型論か何かをするつもりだったかで,ある種の社会についてそれが「虚数のイメージ」だとか言っていた発表があった.当時私は血気盛んな若者だったので,「虚数とはどういう意味か」,「虚数はかくかくしかじかの性質を持っているが,その類型においては虚数のこの性質はどのように反映されているのか」などと,ぐうの音も出ないほどやりこめた覚えがある.ともあれ,何事においても,本当にきちんとした理解もないのに数学的装いを持ったまやかしの文章は書くべきではない.
グレーベの原典の出版から30年以上が経過している.音楽評論のあり方もずいぶんと進歩している可能性もあるが,周囲の音楽関係者たちから感じられるのは,社会学会などは比較にならないほど権威主義的で閉鎖的な領域であることである.こういう状態においては,出る杭は打たれたり,しがらみにとらわれたりと発展が遅い可能性もある.(ある意味うらやましいと思うこともある.大学の先生たちが演奏するとファンがついたり尊敬されたりする.私など研究室に配属されて半年も経たない学生に「辻さん」呼ばわりされる.全く威厳も何もあったもんじゃない.)もう少し新しい評論も読んでみたい.まだ諦めきったわけではないが,少し心配もしている.
ただ,これももう30年も前くらいかと思うが,ホフスタッターが,ショパンの幻想即興曲か何かの分析で,左手の8分音符の6連符に対して右手で16分音符8つが入るというような3:4の型がショパンの音楽には随所に見られるといった分析だったような気がする.しかし,それは数学的にはまともだとしても,「そんなもん,言われんでもわかってるわ.弾いていたら誰でも思うことやろ.」という感じの非常につまらない分析だったような気がする.音楽の構造を理解するのは基本的にパターンマッチング的手法が用いられるようだということはわかってきた.そういうことであれば,時間さえあれば自分にもできることかもしれない,などと思ったりもする.もちろん,暇はないのでやらないだろうが.しかしともあれ,分析をきちんとやれば,単なる解釈ではなく科学的になりうることもあるのだと思う.少なくとも評論家自身の単なる印象のようなものを,素人相手ならごまかせるというようなつもりで開陳しない方がよいと思う.それは人を惑わす知的詐欺である.
私にできる評論,できない評論があることもわかってきた.できる評論は,楽曲の構造分析である.暇があれば水準以上のものを出せるような気がする.しかし,できないのは,たとえば同じ交響曲の数多くの版を評価することである.これはどういうことを基準とすればよいのかがよくわかっていないから(自分では好みはあるが,それがどういうものであるかきちんと言語化できていないし,一般的にどういう点を評価基準にするべきかを知らないから)である.
先日同じ学部のF先生と飲んでいたときに,「究極の目標は数学で音楽を理解することです」と言ったら「そんなことできっこない」とばっさりと切り捨てられた.しかし,今の工学者たちがやっている音楽の分析は,これで何もかも解明できたというレベルには達していないものの(たとえば,大阪大学の沼尾先生の研究など),数学でできる部分はまだまだ残されているようには思う.最後までやり通すことはできないにせよ,最初から理性による到達を諦めるのではなく,理性によっても理解できない残余としてどういった部分があるかを明らかにしていくことが重要であるように思う.
春休みごろのことだが,池袋のヤマハに行ったときに,本のコーナーに行ったら,3冊くらいブルックナーにかんするものがあり,そのうち読みやすそうなものと思って買ってみた.
私がブルックナーを知ったのはわりと最近である.クラシック音楽のCDを紹介する雑誌を見ていて,自分がこれまでよく知らない人のものを買ってみようと思って,交響曲第9番(ヴァント指揮,ベルリン)を買ってみたのが始まりだった.(たぶんだけど,吹奏楽出身の人は,ブルックナーをやった人というのはほとんどいないと思う.そこから入ると,存在すら知らなくてもおかしくないように思う.)最初に聴いたときから,あまりのすごさに戦慄が走った.オルガン的なサウンドで,特にホルンの使い方がすごい(19世紀末という時期なのに6本も使っている).対位法がうまい.数小節程度のフレーズがいくつか執拗に繰り返されるのだが,それが何度も同じ雑念が頭をよぎるような効果を生んでいて,普段の私自身の雑念のパターンとマッチするような気がして共感できる.
私はブルックナーと同時代人のブラームスの交響曲が好きになれないのだが,ブルックナーは私的には「はまれる」音楽である.
しかし,ライナーノーツの言っていることがよくわからないと思うところも多かった.よくわからない筆頭が,ブルックナーは「弱い」といった記述であり,続いて,交響曲にさまざまな版があるということだった.そのあたりについて,すっきりしたいという気持ちが強くなっていた.そんなわけで,本書を読んでみようと思ったわけである.
本書の構成は,
序言
1.ブルックナーの問題点
2.幼・少年期のブルックナー
3.若い学校教師
4.聖フローリアンでの十年
5.リンツ大聖堂のオルガン奏者
6.ウィーン音楽院の教授
7.音楽都市ウィーン
8.両派の争いの間で
9.敗北と成功,そして死
10.ブルックナーの交響曲の植物的な統一
11.形成 関連 特性
12.改訂のジレンマ
・年表 証言 作品表
・訳者のあとがき
となっている.全体としては,前半部分が伝記,後半10章以降がブルックナーにかんする音楽論といった感じである.
読み終えてすでにずいぶんと日が経っているので,伝記部分で印象的なことといえば,不正確だとは思うがまとめると,だいたい以下のとおりである.幼少期には教師になるべく育てられ,非常にくそまじめで融通の利かない感じの性格であったということ.当時は教師になるには教会音楽について知り,オルガンをある程度弾けないといけなかったということ.ただし,そのような音楽は,いわゆる芸術音楽とは方向性が違っていたということ.しかし,ブルックナーのオルガンの演奏技術は抜きんでており,即興演奏なども得意としていたこと.かなり年を食ってからウィーンに出たが,元来社交が苦手で,ワーグナーとブラームスとの抗争に巻き込まれ流されたこと.自分の作品に絶対の自信が持てず,批判をおそれ,人に相談したりしながら改稿を続けたこと,またそのために版がいくつかある作品があること.権力に対する考え方が偏っていて,学校にこだわり,ウィーン大学の教授となることを求め続け,ついに実現したこと.彼の音楽は,ウィーンにおいてよりも他の都市において認められたこと.といった感じである.
そんなところから,彼の音楽で随所にオルガン的な響きが作られるのは,やはりオルガン奏者という背景があるからだということがわかってきた.
ブルックナーの「弱さ」とは,芸術家に必要なある種の高慢さ(「お前らにはこのよさがわからんのか!」といった感じ)がなく,批評家の批判に応えて改訂を加えるといったことをやってきたことにあるのだということがわかってきた.
私の関心は伝記的なところよりも,むしろ音楽論にあった.どの交響曲も何となく同じような雰囲気を持っており,冗長とは言わないまでも長大である.こういったブルックナーの音楽を著者はどのように分析し解釈するのかに単純に興味があった.もう少しいうと,そういった分析や解釈というものが,どの程度科学的であるかということに興味があった.今まで音楽論というものにほとんど接したことがないので,ほとんど何の免疫も持っていない.あるのは社会学(数理的・計量的社会学)という他領域で培った能力であり,そういう観点から音楽論というものがどのように見えるか,ということに関心があった.
しかし,結論から言うと,やっぱり理解不能だった.何といっても10章のタイトルにもある「植物的統一」である.ひどい揶揄なのかもしれないが,「草食系男子」「肉食系女子」とかいう社会学的に見てクソなふざけた概念(もちろんそれは社会学の用語ではない)と比べて異なる水準にあるといえるかかということである.「植物的」とはいったい何なのか.関連する部分を本書から拾ってみると,「[ブルックナーの交響曲に]肯定的な見解の人々は,ここに「植物的な統一」とでも形容されるべきものを認める.それは[否定的な見解の人々がいうように]固定観念への永続的な関連ではなくて,一つの根本理念への永続的な関連と見るのである.」(p.206) 「ブルックナーの全交響曲の,その相互に結びつけられた関連は単純ではない.それらが秩序づけられている構造は,大きな相互関連の深さを持つ,閉じられた世界を示している.」(p.206) このあたりですでにお手上げなのだが,
1.固定的観念への永続的な関連ではない,
2.一つの根本理念への永続的な関連である.
3.交響曲が秩序づけられている構造は,深い相互関連を持っている閉じられた世界である.
私は日本語の理解が深くないことは認めざるをえない.自分には国語力がないので文学者にはなれないことも認める.しかし,1と2でいうところの「固定的観念」と「一つの根本理念」は,何か根本的に違うのだろうか.素人的に思うことを述べれば,前者はあくまでも個人的で多くの場合あまり価値のない思いこみみたいなものであり,後者は一般的で普遍的に価値のある考え方といったものだろう.そんな素人的な考え方が認められるのであれば(あくまでも仮定の話だが),問いたいのは,そういったものの違いを区別するものは何かということである.「お前のような無教養なものにわかるはずがない」と言われるかもしれないが,個人的にはそういった言い方は逃げ口上のように思われる.むしろ示してほしいのは,ブルックナーの交響曲のどういったところに「固定的観念」ではなく「一つの根本理念」が表出されているのかを示すことである.とりあえず,本書に具体的な記述はないと思われた.しかし,「引用個所にあるように,これは「全交響曲」において表出されているのであり,個別的にどこだということは言えない」と言われてしまうかもしれない.いやしかし,それはやっぱり逃げ口上なのではないだろうか.
また,統一感というものがブルックナーの交響曲全体に感じられることは,私にもわかる.それは,異なる交響曲間で同じフレーズが鳴っていたり,ブルックナー・リズムと言われる音型が随所で鳴ったりすることである.それはそれとして,こういった統一は,なぜ「植物的」と呼ばれなければならないのだろうか.「植物的」という言葉の明確な定義は示されていない.また,それと対義語になると思われる「動物的」といった表現についての言及や定義はない.結局,統一感があることは示せても,それが「植物的」と呼ばれなければならない理由は見いだせなかった.こんなことでよいのか.
さらに,「もし我々がブルックナーの交響曲の基本的な成長の法則を理解しようとするならば,その立証が試みられなくてはならない.ブルックナーの音楽における,いわば「原植物」を見い出すことが問題となる.」(p.209)しかし,「その立証にもし成功したとしても,それによって「植物的な統一」を極めて明白なものとして体験することが,だれにでもできるというわけではない」(p.210)という.卒倒しそうである.しかし,そんなに難しいことなのだろうか.グレーベが本書で示していることは,基本的にはパターンマッチングだと思う.おそらくパターンマッチングをするための基本となる音型など基本となる各種のパターンのことを「原植物」と呼んでいるのではないかと想像されるが,しかし,それによって「原植物」というものが発見できたとしても,「植物的な統一」を体験することが誰にでもできるわけではないとは,あまりにも人をバカにしている.なぜ,我々には「植物的な統一」を体験できる人と体験できない人がいるのだろうか.これには,いくつか解釈が可能であろう.
1.グレーベという人は「神」であり,我々に対して神託を与えている.神託は理解できない人,洞察できない人がいて当然である.逆に言うと,神の言うことを意味はわからずともひたすら信仰できるかどうかが重要である.
2.この後続くグレーベなりの「分析」は,数学を使ったかのような記述が続く.特に,2:3やら,6:9やらといった比を用いた「分析」らしきことをしている.「数の象徴的意義という問題を深く追求しない人,数の神秘から全く遠ざかっている人には,数が音楽の構造に極めて大きな意義をもっているということは,殆んど議論の対象とはならないであろう.しかし,かつてのフランドル地方の音楽やバッハに至るまでのバロック音楽は,建築学的な性格を持っていた.」(p.208)とあるように,多くの人々は数学が苦手である.数学のわかる人にしか「植物的な統一」は理解できない.数学の証明問題の中でも難しいものは,世界に数人しか理解できないものがあるという言説があるが,これはそれに似ている.
3.とにもかくにも無茶苦茶な論理であり,実際にグレーベの分析はひどい.わかる方がどうにかしている.
私の意見では,3が正しい.それを論証してみよう.
1.まず,神がいるかどうかは別にして,グレーベは神ではあるまい.ただひたすら信じよ,長いものに巻かれよというのは,非科学的態度にすぎる.別に科学的である必要はないと開き直るならば,それは人々にひたすら信仰を強制するファシストのようなものであると言えばよいか.いずれにせよ,1のようなものではないだろう.
2.「数」というものは重要かもしれないが,論じ方があまりにも稚拙である.ちなみに私は数理社会学者であり,多少とも数学や数理モデルになじみがある.私の目は数学者ほどではないにせよ,それなりのセンスがあるものと自負している.以下では,論理破綻している点について指摘したい.
ベートーヴェンとブルックナーのそれぞれ9つの交響曲について,その関連性を描いた図が示されている(p.206, p.208).しかし,その根拠ははなはだ心許ない.曰く「もし我々が,化学者が分子に対してするように,この結合の構造を象徴的に表すならば,それは次のようなものにちがいない.」といった程度である.ただグレーベ自身がそのように思った・感じたという以上の理由はないのである.こんなものは,数学でも何でもない.数に対するイメージを語っただけで単なるまやかしである.
「古典派の音楽にとっては,「二」が基本的な数である.「二」は一義的な対称性を持つ偶数であり,明白な一目瞭然とした性格を古典派音楽に与えている.」(p.209)「「三」という数字は,ブルックナーの全作品で,殆んどとらえきれないほどの重要な役割を果たしているのである.」(p.208)「「三」という数字はあまり合理的でなく,また同時に,一義的な対称性をもっていない.その構造はより複雑である.要するに基本的な数としては,「三」は音楽を複雑にし,背景のある奥行きの深い眺望を与える.その構造と経過に「三」という数が決定的に作用している音楽は,そしてさらに2:3という関係が公式として支配的である音楽は,「二」という数字が支配する音楽よりも,見通しはよくないかも知れないのである.」(p.209)「2:3という公式が,ブルックナーの交響曲のあらゆる層において作用していること,それが動機細胞のような小さな部分でも,ここの楽章の形式構造でも,そして終極的には全作品の包括的な輪郭においても,作用していることが証明されて初めて,我々は「ブルックナーの交響曲の植物的な統一」ということを,正当に語ることができるのである.」(p.209)という.
動機細胞という点からは,ブルックナー・リズムが2:3であることが論拠とされる.これはまあよいだろう.とりあえずこういったリズムが散見されるのは確かである.
楽章の形式構造という点については,交響曲第7番の第1楽章の提示部について,それが明白な実例として取り上げられているのだが,曰く「この提示部は三つのグループからなるものである.つまり第一のグループは,和声から生まれた間隔をおいた音からなる主要主題である.」(p.216)「第二のグループは,全音階的な線的なインパルスから生まれた第二主題であり,これには和声は,いわば単につけられているだけである.そして最後に,簡潔な第三のグループであるが,その「偉大さ」は超人的な距離感を表現している.」(p.216)このあたりになると,かなり怪しくなってくる.提示部の9小節が3つの部分に分かれ,それが以上のような関係性を持っているのだという.しかし,例はこれ1つである.論証としては1例をもって「他にもいろいろある」と言ってしまうのは無理がある.例を挙げるだけでは証明になどならないのだが,いずれにせよ,科学的分析とは言えない.もっと言えば,自説を根拠づけるのに都合のよい例だけを挙げるという態度も納得できない.科学者としてなら相当にまずいことをやっていることになる.
全作品の包括的な輪郭については,交響曲を2群に分けている.第1群が3,4,5,6,7,9番の6交響曲と,第2群が1,2,8番の3交響曲である.そして,この分かれ方により,6:9あるいは2:3の関係があるのだという.(これがなぜ2:1ではなく2:3と呼ばれなければならないのかも疑問である.ブルックナー・リズムは2:3と言ってもよいと思うが,この場合,第2群は実質的には1の大きさしかないわけで,合わせて3というのは,言い訳がましい気がする.ともあれ,)その根拠が第1楽章の主要主題である.第1群では,根音,3度,5度,オクターブといった音を強調しているが,第2群はそうではないというところに区別の根拠を求めている.これについては,確かにあまりにも明白な気もするのだが,しかし疑義はある.まず,群の分かれ方が規則的とは言い難い.各群の交響曲の番号の並び方に規則的な美しさは感じられない.ブルックナー自身が,いろいろなものを数える人だったというエピソードによって数への執着を強調しているようであるが,この美しくない分かれ方は,グレーベの論を弱めているように思われる.また,常識的に考えてみても,ブルックナーが当初から9つの交響曲を書こうと思っていたかどうか,また,生涯に書くことになるであろう交響曲に対して当初から何某かの計画性を持って取り組んでいたかとなると,それは相当に無理のある仮説ではないだろうか.かたやワーグナーとブラームスとの抗争や,必ずしも成功しなかった自曲のプロモーションという状況にあって,初心があったとしても,それを貫徹できるような状況にはなかったと思わざるをえない.それができるなら,彼を「弱い」と表現することは相当に無理があるだろう.「三」とか「2:3」といった「公式」について,それは「彼の無意識の深層から出て来て,彼の音楽の成長に作用したものと仮定してよいだろう.」(p.217)とあるが,無意識とか無意識の深層というのは,完全に説明を放棄しているとしか思えない.現在の科学の水準においては(本書の書かれた30年前においても),無意識などというものを説明として使うのはギャグでしかない.
以上から,解釈の2については,数にかんする理解があったとしても,理解できるものではないということができるだろう.このように3つの解釈可能性について考えてみたが,消去法的に考えると,3の「とにもかくにも無茶苦茶な論理であり,実際にグレーベの分析はひどい.わかる方がどうにかしている.」というものしか残らない.現代風にいえば,グレーベの分析とやらは「トンデモ」仮説にすぎないとしか言いようがないと思われる.
さて,そんなわけで,音楽論というものについて,私はかなり怪しいと思うようになってきた.こんなものをありがたがって奉じ奉る必要など全くない.グレーベという人がどれほどの権威のある人なのかどうかは知らないが,私には雰囲気でものを語る人という悪い印象しか残らなかった.
こういったところから,私が考えた音楽評論のあり方は,以下のとおりである.
1.音楽構造の分析は,パターンマッチング的な手法で行っているようである.それはそれでよい.しかし,印象論にとどまらないように,最も明白な例だけでなく,少なくともいくつか例を示すべきである.それにしても,立証とか証明といった強い言い方をするべきではない.我々にできることは解釈に過ぎない.
2.1人の作曲家について,そもそも科学的に分析することができるのだろうか.ブルックナー・リズムについては私はあまり問題ないと思う.そういうパターンがブルックナーのさまざまな交響曲で散見されるというのは,例がいくつでも取れるので,科学的分析の俎上に乗るだろう.ただし,ブルックナー・リズムが独特であるというためには,他の作曲家と比べてこれの使用頻度が極めて高いことを実証すべきである.しかしながら,1人の作曲家について,その生涯に書いた交響曲全体に対してパターンを見出したりする作業は,あくまでも解釈にとどまると考えるべきであろう.それは,全体として1例に過ぎないからである.1例ではそもそも科学になりえない.作曲家というものは,同じ作曲家が2度と現れないということからしても,物理学において何かを予見させる例が1つ見つかったというのとはわけが違う.再現が不可能であるからである.比較的に他の作曲家との違いを分析することは可能としても,1例のためにそれを「植物的」だの「動物的」だの言ってみても仕方ない.それは何らかのイメージを喚起するかもしれないが(私には全く意味不明のままだったが),他との比較をもとに端的なイメージを与えるものでなければ,そのイメージには意味がないだろう.また,「植物的」という意味はよくわからないにせよ,おそらく「動物的」といった言葉と対になるのであろうと思う.つまり「植物的」という言葉は,2元論的な分類を想起させるものであるわけだから,他にも植物的という範疇に分類されるような作曲家がありうるかもしれない.そうだとすれば,「植物的」という比喩は,全体を2つに分ける程度の意味しか持たず,したがって,ほとんど何も解明したことにならないように思われる.もっとも,ブルックナーの同時代までの作曲家たちが「植物的」という範疇に分類される者が誰もいなかったというなら話は別であるが....しかし,本書においてグレーベは,交響曲全体の包括的分析としてはベートーベンとの比較しかしていない(しかもその部分さえ印象論に過ぎず,成功しているとは言い難い).論証は極めて部分的であるという印象を持たざるをえない.そんなわけで,どんな作曲家についてであれ,その人,その作品の全体的な傾向にかんする分析は,科学的に行おうとするならば相対的にしか行われえない.数が重要などと,いかにも科学を装うやり方,しかも,数理社会学という多少なりとも数学にかかわる者からすれば,極めて粗っぽい「数学的」論証は,読者を煙に巻いているとしか思われず,このようなやり方は忌避されるべきであろう.数や数学を持ち出さないで,単なる解釈だというなら大目に見たい気もあるが,ほとんど似非数学としか呼べないものを科学的な装いのために利用することは,非専門家をバカにしている気もするし,実際,数理モデルを扱う者を納得させるものではない.
全体的な感想としては,音楽評論家全体としてはどうか知らないが,一部には知ったかぶりをするような人がいるということであった.それでも少し救いの手をさしのべるとすれば,これは音楽評論に限ったことではなく,どの世界にもいるものである.私も日本社会学会だったかでひどい発表を聞いたことがある.詳細は忘れたが,社会の類型論か何かをするつもりだったかで,ある種の社会についてそれが「虚数のイメージ」だとか言っていた発表があった.当時私は血気盛んな若者だったので,「虚数とはどういう意味か」,「虚数はかくかくしかじかの性質を持っているが,その類型においては虚数のこの性質はどのように反映されているのか」などと,ぐうの音も出ないほどやりこめた覚えがある.ともあれ,何事においても,本当にきちんとした理解もないのに数学的装いを持ったまやかしの文章は書くべきではない.
グレーベの原典の出版から30年以上が経過している.音楽評論のあり方もずいぶんと進歩している可能性もあるが,周囲の音楽関係者たちから感じられるのは,社会学会などは比較にならないほど権威主義的で閉鎖的な領域であることである.こういう状態においては,出る杭は打たれたり,しがらみにとらわれたりと発展が遅い可能性もある.(ある意味うらやましいと思うこともある.大学の先生たちが演奏するとファンがついたり尊敬されたりする.私など研究室に配属されて半年も経たない学生に「辻さん」呼ばわりされる.全く威厳も何もあったもんじゃない.)もう少し新しい評論も読んでみたい.まだ諦めきったわけではないが,少し心配もしている.
ただ,これももう30年も前くらいかと思うが,ホフスタッターが,ショパンの幻想即興曲か何かの分析で,左手の8分音符の6連符に対して右手で16分音符8つが入るというような3:4の型がショパンの音楽には随所に見られるといった分析だったような気がする.しかし,それは数学的にはまともだとしても,「そんなもん,言われんでもわかってるわ.弾いていたら誰でも思うことやろ.」という感じの非常につまらない分析だったような気がする.音楽の構造を理解するのは基本的にパターンマッチング的手法が用いられるようだということはわかってきた.そういうことであれば,時間さえあれば自分にもできることかもしれない,などと思ったりもする.もちろん,暇はないのでやらないだろうが.しかしともあれ,分析をきちんとやれば,単なる解釈ではなく科学的になりうることもあるのだと思う.少なくとも評論家自身の単なる印象のようなものを,素人相手ならごまかせるというようなつもりで開陳しない方がよいと思う.それは人を惑わす知的詐欺である.
私にできる評論,できない評論があることもわかってきた.できる評論は,楽曲の構造分析である.暇があれば水準以上のものを出せるような気がする.しかし,できないのは,たとえば同じ交響曲の数多くの版を評価することである.これはどういうことを基準とすればよいのかがよくわかっていないから(自分では好みはあるが,それがどういうものであるかきちんと言語化できていないし,一般的にどういう点を評価基準にするべきかを知らないから)である.
先日同じ学部のF先生と飲んでいたときに,「究極の目標は数学で音楽を理解することです」と言ったら「そんなことできっこない」とばっさりと切り捨てられた.しかし,今の工学者たちがやっている音楽の分析は,これで何もかも解明できたというレベルには達していないものの(たとえば,大阪大学の沼尾先生の研究など),数学でできる部分はまだまだ残されているようには思う.最後までやり通すことはできないにせよ,最初から理性による到達を諦めるのではなく,理性によっても理解できない残余としてどういった部分があるかを明らかにしていくことが重要であるように思う.
